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「持ち時間と思考(他3篇抜書)ー 羽生善治」先を読む頭脳 新潮文庫

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「持ち時間と思考(他3篇抜書)ー 羽生善治」先を読む頭脳 新潮文庫

持ち時間と思考

われわれプロの対局では各自の持ち時間が決まっています。一日で決着をつける場合には三~五時間、二日制の場合は八~九時間が通常の持ち時間です。
私は持ち時間は長いほうがやりやすいと思っていますが、ただ無闇に長くても意味はないのも事実です。かつては有名な阪田三吉木村義雄の「南禅寺決戦」(昭和一ニ年)のように七日制で持ち時間三〇時間という極めて長時間の将棋が指されたこともありました。
しかし、実際には持ち時間が長ければ長いほど、内容の濃い将棋が指せるというわけではないのです。ある時間以上は、二〇時間にしても三〇時間にしても五〇時間にしても、それで将棋の出来が良くなることはないと思います。
現在、持ち時間が最も長いのは「名人戦」の九時間ですが、それ以上に長くしても将棋が良くなるとは思えません。というのは、結局のところいくら持ち時間が長くても、時間がなくならないと指さないのです。言い換えると時間がなくなってきたので、踏ん切りをつけて指しているというところがあるわけです、
どんなに時間があっても、読みきれないものは読みきれません。ですから仮に持ち時間が何十時間あっても結局、残りが一時間とか三〇分にならないと踏ん切りがつかないのです。変な言い方ですが、時間はなくならないと意味がないのです。
ただ、微妙な話ですが二日制の場合には持ち時間が八時間よりも九時間の方が、私はやりやすいと思っています。わずか一時間の差ですが、集中と休憩のバランスから言うと九時間が望ましいのです。
もう少し具体的に言うと、二日目の夕方、局面が終盤の大詰めに差し掛かった段階で、持ち時間が九時間の場合、夕食休憩が入ります。一方、持ち時間八時間の場合には、休憩なしで終わるまで指しつづけます。その差が大きいのです。最後に休憩時間があることで、終盤の内容を良くすることができるのです。
終盤の場面では、二時間ないし三時間あれば完璧に読みきれると感じることはあります。相当に難しい局面でも、かなり読みきれる感覚はあります。しかし、実際には時間配分の目測を誤ってしまうことが多いのです。
つまり、あと二〇手で勝負が付くだろうと思って時間を使って指したところ、その後五〇手も六〇手も続くことがよくあるのです。そうなると、残り一分で延々と何十手も指さなくてはいけなくなり、読み切れずに悪い手を指してしまうこともあります。そのあたりの時間の感覚も、勝負には重要な要素だと思います。
時間配分は大事なのですが、どうしても最初の方に時間を使ってしまい、終盤ではなくなっていることがほとんどです。今までの経験では、終盤の入り口で持ち時間が二時間残っていたことは、ほとんどありません。終盤に入るときは残り一時間から一時間半というのが、私の通常の時間配分になっています。
前に述べたように、最近の将棋では序盤で差がつくと取り返しがつかなくなることが多くなっています。ですから、序盤から中盤でうまくバランスを保つために、どうしても時間を多く使うことになるのです。

もちろん、プロの実戦では斬り合ってすぐに勝負がついて終わりという展開になることは少ないのですが、そうならないようにするためには、やはり配慮が必要です。全く変化の余地なく一方的に負けてしまうことのないように考えていくと、かなりの時間が必要になってくるのです。
時間に関して言うと、私は終盤ギリギリの段階で「残り二分」になっていることがよくあります。「残り一分」ではなく、二分にしておくのです。
それは私なりの危機管理法で、相手に予想外の手を指されたときに、その一分があるかないかで全然違ってきます。秒読みなっても、予想の範囲内で手順が続いていく限りは大丈夫なのですが、思ってもいない手を指されると、一瞬パニックに陥りそうになることもあるのです。
また終盤で、詰みがあるかどうかが一分間で読み切れないときなどは、本当に焦りが生じます。そして、秒を読まれて時間切れギリギリで詰まないと判断したら、それでは次に何を指すかが非常に難しくなってきます。
残り一分になって五〇秒間、相手の王様の詰みを考えて詰まないと結論がでたときに、では何を指せばいいのか。まずは自玉が詰むかどうかを確認しなくてはならないのですが、それは一〇秒程度では不可能です。そのときにあと一分残っていたら、何とか対応することができるのです。
コンピュータなら詰む、詰まないは瞬間的にわかりますが、人間の場合はわからないことがよくあります。詰むかどうかわからずに詰ませにいくと、結果的に詰まなかった場合、相手に駒をたくさん渡していますから、ほとんど負けになってしまいます。
ですから、相手の王様が詰まないのであれば、自分の陣地に金将を置いて守りを固めてみるなど、よりを戻す別の手を考える必要があります。そこで最後の一分を残していることが、とても重要な意味をもってくるのです。
チェスの場合、戦いが長手数になってきたらその分、持ち時間も増えるという方式で対局がおこなわれます。同じように将棋でも、たとえば一〇〇手を超えたら一〇分プラスされるといったルールがあればいいと思うことがあります。
将棋の場合、このくらいの手数で終わるだろうと途中で予測しても、そこからまた形勢が混沌として長引くことがよくあります。そうなったときに、持ち時間が増えると戦っている人間は助かりますし、内容そのものもよくなる可能性が高いのです。

 

時間配分とメタ思考

時間配分に関してもう一つ言えることは、将棋は圧倒的に形勢がよくなってしまえば、時間がなくてめある程度は大丈夫だということです。
局面が有利になれば、次の手を見つけることも易しくなってくるのです。ですから、基本的には局面をよくするということにかなり重点を置いて、時間を使います。
その場合に、今の局面からまだまだ先が長そうだなということを感じることもあり、そんなときには早く指し進めることがあります。それは意識してというより、むしろ無意識かもしれません。例えば、まだ中盤戦の五〇手目くらいの段階で、勝負所の局面がまだまだ先になりそうだと感じたときは、読みきれずわからなくても決断して、局面を前に進めることもあるのです。
この手に関して考えるべきか、あるいは時間を将来に残すべきか。考えるべきかどうかを考える。いわば思考の上のメタ思考は、非常に難しい問題です。コンピュータが進歩して将棋の力が向上しても、その点はなかなか進歩しないようです。
結局、将棋というゲームは、必ずしも収束に向かって進んでいくとは限らないのです。お互いにゴールを目指しているはずなのに、なぜか遠ざかっていくような展開になることがあるのです。オセロや碁などは必ず収束に向かっていくので、時間の使い方の面でも非常に戦略が立てやすいのですが、将棋の場合はそういう意味での時間の費やし方に難しさがあると思います。
また、将棋ではあと二、三手で詰むような局面から、延々と手が続くということも、本当によくあることです。ですから、時間配分の戦略は、私も非常に迷う問題なのです。

長考の秘密

プロが長考しているときには、どんなことを考えているのでしょうか。形勢判断すること自体には、それほど長い時間は必要としません。例えば、一つの局面でどちらが優勢であるかということは、ほぼ直感的に見た瞬間にわかることが多いのです。
私が長考しているときは、ある局面において次の手の候補手がいくつか頭に浮かんだ場合で、「これなら大体いける」、「これはダメ」といったを判断を下すことに時間を費やしています。そして、簡単に言うと相手に指されて自分が困りそうな手がなかったときには、これでいけると決断して指すのです。
ただ、実は思考が停止して時間が過ぎて行くという状況も、時としてあります。つまり、一つの難しい局面で、思わしい手がどうしても見つからないということはよくあるのです。そんなときは長考しているといっても、「こう来て、ああ来て・・・」ということをずっと考えているわけではなくて、最初の第一歩が踏み出せないだけのことが多いと思います。
さきほどお話ししたように、将棋にはマイナスな手が多いですから、パッと見た直観で最初のフォーカス(手の絞り込み)をしていく段階で、プラスになりそうな手がまず見つからない場面がよくあります。そういうときには、手を読んでいるわけではなくて、ただその局面を眺めていて、何かないかなと考えているのです。極論すれば、形勢判断もしてないし、手も読んでおらず、ただ止まって時間が経過しているだけ。われわれプロ棋士でも、そんな感じのときがあるのです。

 

独創的な発想

 

藤井システム」という戦法がここ数年、プロ棋士の間で大流行し、数多くの対局で用いられました。一言で言えば、王様を囲わずに攻めていく振り飛車です。
それまでは、振り飛車にした場合は美濃囲い、あるいは穴熊という形で王様を堅陣に囲ってから勝負するのが常識でしたから、藤井猛九段が初めてその形で指したときにはとても新鮮で衝撃的でした。
「新手一生」と言ったのは往年の大棋士升田幸三先生ですが、常に新しい創造的な手を指したいという気持はプロ棋士なら誰もが持っていると思います。最近のプロの将棋では、確かに今まで見たことのない前例のない手が毎局のように指されていますが、そのほとんどが既存の手を少し修正したという程度の手です。
ですから、今までの発想では有り得なかった「藤井システム」は大変に画期的な戦法で、将棋の根本の常識から揺るがされたと言っても過言ではありません。何十年に一度出るかどうかと言うくらいの新戦法でした。
将棋の場合、「藤井システム」以外にも中座真[ちゆうざまこと]五段が編み出した「中座飛車[ちゆざびしや]」など、新手、新戦法には発見者の名前がつけられることがよくあります。
また、児玉孝一七段が考案した「カニカニ銀」という戦法があります。二枚の銀をまさにカニのはさみのように繰り出していく、やはり大変独創的な戦法で、仮に私がこれから一〇〇年間将棋を指したとしても絶対に考えつかない戦法だと思います。
私はまだ自分の名前や、オリジナルの名前が付けられるほど画期的な戦法は編み出していません。残念ながら今までの対局では、ものすごく飛躍した創造的な手を指したことはないと自分でも思っています。
将棋には計り知れない可能性がありますから、「独創的に指せ」と言われればいくらでも指すことはできるのです。ただ単に、誰もやりそうもない手を指せばいいのであれば、簡単にできます。しかし、その「独創的な手」で局面をよくして有利に導くことができるかということになると、かなり難しいと言わざるを得ません。
将棋には非常に長い歴史があり、これまでに何万局、何十万局という数の実戦が指されています。その中で築き上げられてきた発想や常識を根本から覆す指し方をすることは、実際には相当に大変なことだと思います。また、だからこそそれを覆した「藤井システム」などは凄いと言えるのです。
ただ、プロである以上は、常に新たな手は追求していきたいと思っています。一局指すことによって新たな発見があったり、今まで知らなかったことがわかってきたりする。私は毎局そんな将棋を指したいと願っており、その気持が今の自分自身の将棋に対するやる気を支えていることは間違いありません。
発見と創造ーそれこそが私が将棋を指し続ける最大のモチベーションになっています。

 

 

 


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