「ブルーノ・タウトの小箱 ― 隈研吾」銀座百点編 おしゃべりな銀座 から
僕がまだ小学生のころの話である。そして少し銀座とかかわりのある話である。 ある晩、父が応接間の棚の上のほうから、小さな木製の箱を下ろしてきた。直径二〇センチ、高さ一〇センチ程度の上品な光沢のある、円形をした蓋付きの箱であった。どろくさい民芸風でもないし、かといって冷たい感じのするモダンデザインとも違う不思議な質感をもった小箱だった。「ブルーノ・タウトという建築家、知っているか」世界的な建築家がこの小箱をデザインしたという父の自慢話をひとしきり聞いたあとで、箱を裏返してみたら、カタカナと漢字で「タウト/井上」という焼き印が押してあるのを発見した。「なんだ、日本語じゃないか・・・」少し拍子抜けした感じがした。 大学に入って建築を勉強しはじめ、聞き覚えのあるタウトについて調べてみるうちに、「タウト/井上」が、建築史のエピソードとして知られる、価値のあるアイテムであることを知った。
ブルーノ・タウトはナチス・ドイツから共産主義者という嫌疑をかけられ、一九三三年シベリア鉄道でドイツを脱出し、日本海をわたって日本にたどりついた。身よりも知人もない極東の異国日本で、この建築家を助けたのが、高崎の建築会社、井上工業のオーナー井上房一郎だったのである。 井上は高崎の達磨寺という寺の一室をタウトに提供しただけでなく、タウトに家具や小物を自由にデザインさせ、それらを販売する店を銀座七丁目の角に開いた。店の名をミラテスといった。そこで売られていた物にはすべて、「タウト/井上」という例の焼き印が押してあったのである。 デザイン小物などという商品が社会的に認知されるはるか前の時代に、銀座にそんな店を開こうというのだから、井上というのはかなり新しいもの好きであったらしい。そこに顔を出した父も同じく変わり者であったに違いない。明治四十二年(一九〇九年)生まれの父は日本橋で育ち、二十代の遊びざかりは銀座を庭としていたらしい。そのころ、七丁目のミラテスで買い求めたとすればタイミングはぴったりなのである。
タウトは三年後に日本を去ってミラテスも閉じられるが、井上は戦後も映画『ここに泉あり』で知られる群馬交響楽団の設立の中心人物として活動したり、自分のアートコレクションを寄付して、群馬県立近代美術館をたちあげ、設計を若き磯崎新にまかせるなど、目ききの文化のパトロンとして大活躍するわけである。 その歴史上の人物と思っていた井上房一郎に直接仕事を依頼されることになるとは学生時代には夢にも思わなかった。 時は一九八九年、バブルの真最中である。津波ですっかり有名になったタイのプーケットの沖、マイトンという名の小島に井上工業と島のオーナーであるタイのヒランプルックファミリーとが協同でリゾートホテルを作るので、その設計を遣ってくれというのである。プロジェクトの中心人物は房一郎さんの孫の健太郎さんである。健太郎とは毎晩のように飲んで夢を語り合ったが、房一郎さんは九十を超す高齢で打ち合わせにはほとんど顔を出さない。 「タウトってどんな人だったのですか」どうしても話が聞きたくて、ある日高崎の自宅を訪ねていった。房一郎さんの記憶は鮮明であった。「図面を書くのが早い男でしたよ。もぞもぞひとり事を言いながら、あっという間に図面を仕上げちゃうんです」
円い小箱はいつのまにか井上さんと僕をひきあわせてくれたのだが、話はまだ終わらない。 一九九三年、当時バンダイの社長であった山科誠さんから熱海にゲストハウスの設計を依頼された。敷地を調査していたら、隣の家から婦人が挨拶にあらわれた。「設計をやられるんですか。それならうちをご覧になってください。ご興味もたれると思いますよ」 二階建ての普通の木造長屋である。どこがおもしろいのかまったく見当がつかなかったが、隣とは仲良くしていかなくてはいけない。案内されるままに、地下室へと階段を下って行った。 突然、大きな明るい空間が開かれた。仰天した。なんとここはブルーノ・タウトが設計したまぼろしの住宅といわれる日向邸だったのである。湘南あたりの海際にたっているという程度の曖昧な記憶であった。それがまさか、自分の設計する敷地のお隣さんとは。 日向邸は不思議な作りの家である。熱海の崖の際に木造の二階家があり、崖にはり出すようにコンクリートのフレームを作って、その上に芝をいれて庭園としていた。このコンクリートのフレームの下部のスペースを利用して、地下室を作ろうという計画が持ちあがり、その設計が日本に滞在中のタウトに依頼されたのである。
すでに世界的名声を得ていたタウトからしてみれば小さな仕事である。それでもタウトは全力を傾け、不思議な空間を実現した。地下でもあり、地上でもある空間。庭の下に隠れているので、どこからも存在は知られない「見えない建築」。ガラス戸は全開可能で海と人とがひとつになる。建築とは形態ではなく自然と人間との関係性であると、タウトはこの家を説明している。 日向邸から僕はいろいろなことを学んだ。その隣に僕が設計したゲストハウスには「水/ガラス」という名前をつけた。海と人とをひとつにするために、タウトの本を読みあさり、彼のディティールを研究した。それほどに日向邸はすばらしかった。タウトの人生の蓄積が、そのディティールの隅々に込められていた。 振り返ってみれば、父が棚の上から大事そうに下ろしてきたあの小箱が僕の人生をずっとリードしてくれたような気がする。タウトが導くままに僕は図面をひいてきたといってもいい。とするならばある日の夕方、会社帰りの父が、七丁目の角のショーウィンドウをのぞいた一瞬からすべてがはじまったのかもしれない。 タウトは三年間日本に滞在し、いくつかの家具と小物をデザインし、日向邸、大倉邸と、二つの住宅をデザインした。日本を離れてトルコに渡り、二年ののち過労が原因で客死した。