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「今日是好日 ― 玄侑宗久」禅語遊心 ちくま文庫 から

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「今日是好日 ― 玄侑宗久」禅語遊心 ちくま文庫 から

 

雲門文偃の「日々是好日[にちにちこれこうにち]」が『碧厳録』第六則によって有名だが、こんな言葉もある。「日々」ではなく「今日」になっている。 毎日毎日を「ひび」と括らず「にちにち」と独立してみる。私とあなたが比較できないように、昨日と今日も比べようがない。雨でも嵐でも、今日こそかけがえのない日と見るわけだから、標題の言葉のほうが端的だろう。昨日や明日はこのさい関係ない。「今日是好日」ですべて事足りるはずである。 思えば禅の世界には、このことを実感するためにいろんな禅語があるのかもしれない。 「把住[はじゅう]」と「放下[ほうげ]」というのもそうだ。把住つまりひっつかむべきなのは今のみ。それ以外はきれいさっぱり手放してしまう。昨日や明日を「前後際断」し、放下するから今日是好日になるのである。放下はちなみに「放下著[ほうげじやく]」とも云う。

これをもっと細かく云えば、会社に出かけるときは 家庭のいざこざは放下する。家に戻るときは仕事のことを放下する。途中コンサートに寄るなら、むろん 仕事も家庭も放下して音楽を聴くのである。一日といっても、そんな一瞬一瞬の、無数の「今」の連続である。 「清寂」のところで出した「寂滅現前」も同じことだ。「今」以外は「ありのまま」じゃない。みな頭の操作を通したものだから、寂滅させてしまう。すると今だけが現前する仕組みである。 そんなに放下したり寂滅させたりしていると、さっきと今に連続性がなくなるのではないかと心配になるかもしれない。しかし大丈夫、我々の脳は、無数の一瞬をすぐに「物語」に繋いでしまう。これを禅では妄想というのだが、どんなに修行したとてこれが全くなくなることはないだろう。「莫妄想[まくもうそう]」という看板はダテじゃないが、ある意味でそれは叶わぬ理想かもしれない。なぜなら時間という連続性そのものが、絶えず脳によって捏造されているからだ。

 心がけとしては、だから常に放下を目指すくらいで丁度いい。放っておいても脳は、すぐに把住したがるのである。

ちなみに禅寺では、会計処理にもこの言葉を使う。収入が把住、支出が放下または放行である。放下しつくすと、自然に把住も起こる。それは息を吐くに従って吸えるのと同じことだ。坐禅でも、おもに吐く息を深くすることのほうに気を遣うのである。


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