「「苦」の正体(覚めない夢、破れる現実) ― 南直哉[みなみ・じきさい]」新潮新書 苦しくて切ないすべての人たちへ から
学校と相性の悪かった私は、学生時代に数々の苦杯を舐めたが、その幾つかは余程のトラウマとなったのか、五十を過ぎても夢に出て来た。
一つは、高校の定期テストで、科目は何かわからないが、一問もわからず、このままだとゼロ点だという瀬戸際に追い込まれて、あまりの焦燥で失禁しかけたとき、なぜか着ている服の袖が作務衣であることに気づいて、「あれ?」と思った途端に目が覚める、というものである。
もう一つは、どういうわけか、永平寺への入門が決まったのに大学の単位が足りず、卒業できなくなる夢である(実際には卒業後、一般企業に就職してから出家した)。
浅知恵でよく知らない洋酒を買い、それを持参して指導教授(それがいたのかも今やわからない)のところに、泣き落とすつもりで駆けつける途中、思い切り転んでしたたか顔面を打ち、あまりの痛さに両手で顔を覆ったら、服の袖が作務衣―。
このように馬鹿げた夢を、五十を過ぎても、疲労が蓄積すると決まって見ていた。ただ、馬鹿げていることは確かだが、見ている最中は正しく「現実」である。あの焦燥は実際に大量の寝汗をかかせ、私を疲労困憊にさせたのである。
では、目覚めている時の現実と、夢の中の「現実」はどこで区別したらよいのか。現実と「現実」、それぞれの内容では区別できない。「現実」がいかに馬鹿げていようと、「現実」の中にいる人物は現実なのだ。
この区別は、「現実」から目覚めるかどうか、それだけにかかっている。よく「夢が破れる」と言うが、それは違う。「現実」が破れて夢になるのである。
したがって、今度は逆に、大災害や突然の戦争などで、日常生活という現実の方がいきなり破壊されると、人は茫然として「悪夢をみているようだ」というのである。また、認知症が次第に進むと、当人は「夢と現実の区別がつかない」と言い出すことがあるのだ。
ということは、現実と「現実」、すなわち現実と夢の違いは、そう当たり前なことではない。夢がイメージなら、我々の現実も実はイメージである。我々は自分の身体をメディアにして、外界を五感などの感覚器官を通じて認識しているに過ぎない。認識しているのは、ナマの外界そのものではなく、そのイメージを現実として構成しているのだ。
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イメージという点で、現実と夢の区別はつかない。違いは、そのイメージがどれだけの規模と強度で、いかに長く他人と共有されているか、だけである。規模と強度と期間―それらが他に勝るイメージが、我々の現実となる。夢の「現実」は、“最弱の現実”として淘汰されるわけである。
このことを大乗仏教は「唯識[ゆいしき]」とよばれる思想で、大昔から教えている。この思想を極端に単純に言ってしまえば、我々は「存在しているものを認識する」のではなく、我々の「認識が一切の存在をつくり出す」ということである。
唯識思想は、我々と外界、存在するあらゆるものが、「阿頼耶識[あらやしき]」と呼ばれる、根源的な意識から生まれてくるのだと言う。それは当然個人の意識を超え、個人の意識を拘束する。それが共通の「現実」を作り出し、我々に現実を与えるのである。
この思想に全面的に賛成するかはともかくとして、我々が手にすることができる現実がイメージにすぎず、要するに夢と質的に差がない「現実」でしかないことは、事実である。
となると、問題は「何を認識するか」ではなく「どう認識するか」になるだろう。認識の仕方で存在するものの在り様が変わってしまうからである。まさにここが、いまの時代に大きく浮上している「バーチャル・リアリティー」「フェイクニュース」問題の勘所である。
人間の現実はつい最近まで、基本的に身体という、共通の構造を持つメディアのみで作られていた。つまり、「身をもって知る」「体で覚える」ことが現実の保証であり、だから、我々は共有の規模が大きくて強度が高く、長期間通用するイメージを確保して、現実として持ち得たのである。
ところが、人間の身体的な感覚や、それに基づく認識を、拡張したり変形する技術が急激に発展し普及すると、その技術の種類と強度に応じて、現実は分裂していく。
今はまだ、身体に機器を装着する段階だから、身体に保証された現実と機器による「現実」の区別は残る。しかし、それが長期間装着され続けるか、生まれた直後から装着させられ、機器が身体化すれば、この区別は無意味になるだろう。
さらに状況が先鋭化すると、我々が今まで普通に向き合っていた現実は、分裂して様々な「現実」が生まれ、それが競合し、淘汰され選別されて、我々に対してより拘束力の強い「現実」(=共有される夢)が、晴れて現実の地位に就くことになるだろう。日本の『攻殻機動隊』というアニメーション映画、『マトリックス』というアメリカ映画が垣間見せるのは、そういう世界である。
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