「行き先の心配 ― 南直哉[みなみ・じきさい]」新潮新書 苦しくて切ないすべての人たちへ から
我々には、どうしても知りたいけれど、他人に訊くのが憚られる、あるいは恥ずかしいと思うことがあるものだ。自分に対する上司の評価とか、好きになった人の胸の内、大それた金額は無理として、小金が手に入る儲け話等々である。
そういった話のうちでも、私が横綱格だと思うのは、「死んだらどうなるのか」という一事である。
この問題をストレートに屈託なく持ち出せるのは子供だけである。彼らの大多数は自分の死など眼中にない。だから数ある世の不思議の一つとして、簡単に口に出すのである。
ただ、子供の極く少数は、この問題の根深さに引っかかる。もし引っかかった時には、ことは大ごとである。一生を左右しかねない。私がその実例であるように。
ところが、大人になっからはその疑問は、持ち出しにくくなる。経験から言うと、「いい年をした」男は特にハードルが高い。
世間では医者と坊さんは死の専門家のごとく誤解されているきらいがあるが(医者は死ぬ前まで、坊さんは死んだ後に出てくるのが一般である)、私は「死んだらどうなるんですか?」と、子供以外に訊かれたことがない。
大人の場合は、まずどうでもよい世間話から始まる。そのうち身内、特に親が最近亡くなったと言い出す。そして、
「こうなると、次は私の番です(薄笑い)
この後、もう一度話をどうでもよい横道にそらしてから、おもむろに、
「でも、和尚さん、結局、死んだらどうなるんでしょうかね?」
この手のことを訊かれて、いつも私がヘンだなと思うのは「死んだらどうなるのか」と訊く以上は、どうなったか経験できる自分が、死後にもいると思っているのだろうな、ということである。つまり、訊く方に死ぬ気はないのだ。
*