「死後の生命 ― 岸本英夫」中学生までに読んでおきたい哲学6 死をみつめて から
死後の生命の存続如何という問題は、さまざまな表現形式をとりながら、結局、この点に集中してくる。天国や浄土の存在に対する信仰は、そのもっとも単純明瞭な形である。もちろん、天国や浄土における死後の生活様式として描き出されてものは、単にそれだけではない。もっと複雑で具体的な感覚や感情生活をともなった未来が描かれている。ただ、それは、主として、前近代的時代のことであって、近代的社会においては、すでに、それをそのまま信じようとする人の数が少なくなっていることはうたがいのない事実といってよいであろう。しかし、天国や浄土を具体的に信じることはやめた近代の人々も、「この自分」というものの意識の存続を簡単に否定しようとはしない。そこにはいろいろな見解がある。諸説紛々というところである。
なぜ、それが、そのように問題になるか。それは、人間にとって何より恐ろしいのは、死によって、今持っている「この自分」の意識が、なくなってしまうということだからである。死の問題をつきつめて考えていって、それが「この、今、意識している自分」が消滅することを意味するのだと気がついた時に、人間は、愕然とする。これは恐ろしい。何よりも恐ろしいことである。身の毛がよだつほどおそろしい。死後の生命の存続ということが、煎じつめると、その一点にかかっている。何とかして、「この自分」はいつまでもその個体意識をもちつづけうるということを確かめられればとねがう。これが近代的来世観である。
しかし、どうであろうか。死によって肉体が崩壊すると、感覚器官や神経系統も消滅する。脳細胞もまったく自然要素に分解してしまう。生理的構造が何もなくなった後で、「この自分」という意識だけが存在することが可能だと考えようとするのは、相当に無理があるのではなかろうか。
これは、近代においても、人によって、その見解の異なるところがあるように思われる。私自身は、はっきりいえば、そうしたことを信ずることはできない。そのような考え方はどうも、私の心の中にある合理性が納得しない。それが、たとい、身の毛がよだつほど恐ろしいことであるとしても、私の心の中の知性は、そう考える。私には、死とともに、すなわち、肉体の崩壊とともに、「この自分の意識」も消滅するものとしか思われない。私自身は死によって、この私自身というものは、その個体的意識とともに消滅するものと考えている。
(ここまでにします。)