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「百名山 ― 福岡伸一」ルリボシカミキリの青 文春文庫 から

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百名山 ― 福岡伸一」ルリボシカミキリの青 文春文庫 から

 

二〇〇九年七月十六日、北海道大雪山系トムラウシ山でいたましい遭難事故が発生した。夏山でもこんなことが起こるのだ。福岡ハカセ大雪山の旭岳にまでは行ったことがある。トムラウシは旭岳からさらに十時間以上も歩かなければならない。重い装備を担いで奥深いこの山を目指す登山者が絶えないのはなぜか。アイヌ語の奇妙な名前(「花が多い場所」を意味するという)を持つこの山には原生林と奇岩、そして高山植物群が織りなす手つかずの自然が広がっているという。しかし人気のほんとうの理由は別にある。

それはトムラウシ日本百名山のひとつだからだ。作家・深田久弥が昭和三十九年に書いたこの本『日本百名山』には、北は利尻岳から南は屋久島の宮之浦岳まで、日本を代表する百の山々が選ばれ、抒情に富んだ紀行文が添えられている。これほど長い期間、読み継がれている山の本もないだろう。いわば山のバイブル。この本に導かれて、人は山登りが好きになり、百の名山にあこがれ、いつかそのすべてを踏破したいという夢に駆られる。何かを制覇したいという気持ちはコレクション好きの日本人の心性にあっている。しかも百という数はちょうどいい。そう簡単には達成できない。けれど一生をかければ何とかなるかもしれない。筑波山のように小学校の遠足でも行けるような山も入っているけれど、劔岳穂高など難所も多い。実は、かつて福岡ハカセ百名山に憧憬していたことがあった。

学生だった頃、クラスメートに「山屋」がいた。梅棹忠夫本多勝一石毛直道など名だたる京大探検部の系譜を継ぐ山好きがたくさんいたのだ。福岡ハカセは非力で運動音痴、いつも内向的で友だちもいなかったが、なぜかその山屋が誘ってくれたのだった。それはちょっとした低山歩きだった。それでも、どんな装備が必要か、パッキングの仕方、疲れにくい歩行法、地図の読み方、迷った時の判断、いろんなことを一から手ほどきしてくれた。私たちは京都の北に広がる山に入った。ちょうど紅葉が始まる頃で、鮮やかな色彩、濡れた落ち葉を踏みしめる音、そして汗を乾かすひんやりとした風に、心の底から洗われる気持ちがした。山はすばらしい!それ以来、機会を見つけて、山に出かけた。百名山の存在を知り、(簡単な方から)二十座ほどを登った。一人で出かけることもあった。“孤高の人加藤文太郎のことを思った。

ちょっとした慢心があったのかもしれない。滋賀県の南部に広がる湖南アルプスに出かけた時だった。早朝に出発し、午後早くには終点に到着するのが山行の基本である。なのに、寝坊をして登り始めたのが遅かった。それでも日没までに十分下山できる歩行距離のはずだった。山の陽が暮れるのは速い。西の空はまだ明るかったが、山道は急に暗くなりはじめた。下り口までかなり近づいていたがあたりが見えなくなってきた。前後に人影は全くない。ほんの里山なのに完全に闇の中に包まれ、歩く方向さえ見失った。やばい。季節はよかったが、次々と恐ろしい可能性が頭をよぎった。パニックになるな。まずは冷静になれ。どんなことにも糸口がある。遠い昔、山屋が教えてくれたことを思い出した。山と空の境目を見るんだ。漆黒の闇でも、目を凝らすと樹木の梢と空の区別がわかった。それを左右たどると、果たして直線が見つかった。「日本の低山には電線が張られていることが多いんだ。それに沿って下れば必ず林道に出る」。まもなく私は見覚えのある場所に出た。だんだん明かりが増えてくる。林が終わり、そこから先は何の変哲もない集落が始まっていた。時計を見るとまだ夜の六時を回ったばかり。しかしほんの少し前まで、私は確実に違う時間と空間に捉えられていたのだった。

 


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