御存知のように、「オウルド・パア」の瓶の裏には白い髭を生やしたパア爺さんの小さな肖像画が貼ってあって、トマス・パア、百五十二歳と書いてある。いつだったか、瓶の表の方を見たら、此方にも御叮嚀に、トマス・パア、一四八三年に生れ、一六三五年ウェストミンスタ寺院に葬らる、享年百五十二歳と書いてあるのに初めて気が附いて、おやおやと思ったことがある。
この瓶の形は悪くない。最近は蓋が普通の奴になってしまったが、以前の掛金附の金属の蓋の方がいい。固い掛金をかちりと上げたり、かちんと下げたりする方が面白い。ベイクライトか何かの蓋を、ぐるぐる廻して開けるのは一向に面白くない。
パア爺さんは酒の名前になる程だから、何となく大酒飲みかと思っていたが、どうもそうではなかったらしい。パア爺さんに就いて書かれた文章を見ると、この老人は農夫で八十歳迄独身でいて、八十になって初めて結婚したと云うから不思議である。なぜそれ迄独身でいたのか、何故八十になって細君を貰う気になったのか、さっぱり判らない。
その細君と三十二年間一緒に暮して、細君に先立たれたので、それから八年経って二度目の細君を貰った。それが百二十歳のときだと云うのだから、何とも偉いものだと思う。百五十二歳のとき、爺さんの住むシュロップシャアに領地を持つアランデル伯という殿様が、パア爺さんの長寿の話を聞いて、爺さんをロンドンに招待した。何しろ百五十二歳の老人だから、殿さまも気を遣って爺さんを担い駕籠に乗せ、供には道化師を加えたりして爺さんを退屈させないようにしたそうである。
爺さんはロンドンに来て、王様のチャールズ一世にも会ったりしているが、果して爺さんがこの上京を喜んだかどうか判らない。長い間田舎暮らしをしてきた爺さんには、都会の生活は眼を丸くするようなことばかりで、嘸かし草臥れたことだろうと思う。爺さんの噂を聞いて、毎日沢山の人が爺さんを見に来たそうだから、落着く暇も無かったろう。ロンドンに来て数ヶ月后、爺さんは病気になって死んだ。或は、爺さんにとってこの上京は有難迷惑だったかもしれない。
死んでから当時の名医と云われたハアヴェイ博士が遺体を調べたが、内臓にも異常は見当たらず頑健そのものだったというから、ロンドンへ行かなかったらまだまだ長生したかもしれない。恐らく爺さんは馴れない都会生活に面喰って死んだのだろう。アランデル伯も余計なことをしたと云えるかもしれない。
パア爺さんが、何故百五十二歳迄生きられたのか判らない。何でも爺さんの孫のロバアト・パアは百二十四歳迄生きたと云うから、長寿の家系なのかもしれない。面白いのは、爺さんが死んだら抜け目の無い連中が爺さんの名前を附けた薬を売出して、それを飲むとパア爺さんのように長生き出来ること間違無しと宣伝したのだそうである。そんな薬には爺さんの肖像が附いていたそうだが、それはルウベンスの描いた爺さんの肖像画から取ったものだと云う。チャアルズ一世か誰かがルウベンスに描かせたのか、それとも画家が好奇心を起して爺さんを描いたのか、それは判らない。しかし、それが事実だとすると、「オウルド・パア」の瓶の肖像画も元はルウベンスの作と云うことになるかもしれない。
当時の或る詩人がトマス・パアのことを書いているが、それを見ると爺さんはたいへんな働き者だったらしい。朝は雲雀と共に起き、夜は羊と共に眠ったというから、朝寝朝酒なんて思いも寄らない。ビイルとか林檎酒、梨酒、蜂蜜酒等を飲んだが、それは祭とか結婚式とかそんな場合ぐらいで、あとは汗を流してせっせと働いたと云うから、とても酒飲とは云えない。尤も、毎日牛乳とバタ・ミルクと水を沢山飲んで、チイズ、玉葱、バタ、大蒜等を愛用したとある。どこ迄本当か知らないが、頗る元気な老人だったらしいことは判る。そんな働き者がロンドンでは身体を動かさなかったから、身体に変調を来したのだろう。
一説に依ると、爺さんが百五十二歳迄生きたと云う事実には疑わしい点があるのだそうである。しかし、そんなことは気にしないことにする。尤も酒を飲み出すと、爺さんが百歳であろうと二百歳であろうと一向に差支え無い気分になって、瓶の中味のことしか考えない。
(一九七六年十二月)