「足音が遠ざかる(抜書) ― 松浦寿輝」講談社文芸文庫 青天有月 から
やっぱり住まいは地面に近いところがいい、ウォーターフロントの高層マンションなどにはとても住む気になれない、そう口にすると、何と時代遅れな考えに凝り固まった旧弊な御仁か、と憐れむような顔をする人がいる。わたしの感じかたは古臭いだろうか。江戸時代の日本は良かったとか、近代化と都市化が日本人の心を荒廃させてしまったとか、そんな退嬰的なことを言いたがる「伝統主義者」に対しては軽蔑以外の気持を抱いたことがないのに、こと住まいに関してだけは、地上をはるかに離れた高層建築の一室に居を定めようという気にどうしてもなれないのはいったいなぜなのか。マンションよりはやっぱり一戸建て、といった「原=日本人」的な土への執着が、「近代」を果ての果てまでとことん生きるしかないと腹を括っているはずのわたしにも、身体的な無意識のどこか深いところに根を下ろしているのだろうか。だが、きっとそんな大袈裟なことではないのだ。たぶんわたしは人の足音を聞くのが好きなだけなのであり、そんなふうな無意識的な嗜好が身についたきっかけは、むしろ逆に「西欧近代」の現実になまなましく触れたことにあったように思うのだ。もう「日本」的な「安堵の連帯」の内部には戻れないし戻りたくもない。長屋に住んで近所の熊さん八っつぁんやご隠居や大家さんと付き合っている分には、人は何に向かってさらされることもない。彼は共同意識の中で保護されており、それによって、世界に露出されずに済んでいるのである。今のわたしにはそんな場所はどこにもない。ただ、ざらざらした現実に素肌を露出することのひりひりするような痛みと緊張を、或る瞬間不意に思いがけない快楽に転じる途が残されているだけだ。
ところで、ついうっかり不思議な偶然などと書いてしまったけれど、現在の住まいについてだけは、かなり意図的な選択と一階に定めたのだと言うべきだったのかもしれぬ。猫を飼うようになっていたので、彼女が自由に散歩に出て行けるようにしてやるためには陽当たりの悪さを多少忍んでも一階に住むしかないと諦めたのである。もっともこれも、街路と地続きのところに住んでいたからこそ猫を飼い始めたのだとも言えるし、あるいはむしろ、そもそもわたし自身どこか猫に似た習性を持っていて、扉や窓の細い隙間をすり抜けていつでも戸外に出て行けるような場所で暮らしていたい、内と外とが媒介なしに通じあっているような空間に棲まっていたいと密かに願っていたのであり、結局、すべてはそのことに由来しているのかもしれぬ。要するにいわゆる「マンション猫」にはなりたくないということなのであり、それは人の足音に耳を澄ましていたいというのと同根の感情だろう。実際、猫や犬が人間の足音に対してどれほど繊細で鋭敏な耳を持っていて、自分の周囲の人間の立てる物音を一人一人聴き分けているかというのは、動物好きの人ならよく知っていることだろう。