「昔の光(抜書) ― 松浦寿輝」講談社文芸文庫 青天有月 から
昔の光とはこうしたものだ。しかし、われわれはもっと昔の光に思いを致すこともできる。夏の縁日もボードレールのパリもたかだか何十年前とか百何十年前とかの出来事にすぎない。だが、三億七千万年前にも光はあった。三億七千万年前の化石サンゴの一筋の成長帯にはおよそ四百本ほどの微細な成長線が刻みこまれている、という話を初めて読んだときに覚えた名状しがたい興奮を、わたしは忘れることができない。サンゴの場合、一年の間に形成された粗い成長帯の中に数えられる細かな線の一本一本は、一日一日の記録を表わしていると考えられる。樹木に年輪が出来るのと同様に、夜間の遅い成長と昼間の速い成長とが交互になるので線が刻まれるのだ。
われわれは、月が原因で起きる潮汐摩擦によって制動がかかり、地球の自転が長い間のうちに少しずつ遅くなってきているという事実を地学上の知識として理解することはできる。だが、一世紀に約二ミリ秒、つまり一年に五万分の一秒といった極小の時間はわれわれの肉体的実感を越えたものである。わたしにとって、たとえ人生の最後の一日がその最初の一日と比べて0.002秒長かったとしたところでそれは何ほどの意味を持つ事柄でもないだろう。しかし、われわれ人間という生き物のはかない命をはるかに越えた膨大な時間を遡るならば、地球が一年間に四百回自転していた時代がたしかにあったのだ。現に、三億七千万年前に生きていたサンゴは、四百回の日の出と四百回の日の入りに立ち会っていたのである。五万分の一秒の長短ならばどうということもないけれども、一年に日が四百回昇る世界がはるかな過去にはたしかに存在し、その四百回の曙光を浴びていた生物がこの地球上に間違いなく生を営んでいたのだ。わたしが感動を覚えるのは、化石となってであれその生物の躯が今日なお残っていて、その表層に刻みこまれた四百回の暁と四百回の夕暮の痕跡を、われわれが実際に見ることが可能であるという事実なのだ。化石サンゴの四百本の成長線を見るということはすなわち、三億七千万年前の地球に降りそそいでいた日の光を見るというのと同じではないか。