「ホテル裏ばなし ― 森村誠一」日本の名随筆67 宿 から
私は昭和三十三年三月にその後約十年に亘るホテルマン生活の第一歩を踏みはじめた。大阪にあるホテルに出社した第一日に、いきなりフロントに立たされて面喰った。胸に「見習い」の札をぶらさげているわけでもないので、客は一人前のホテルマンと思ってどんどんやって来る。外人が圧倒的に多かった。学校ではいささか自信のあった英語がまったく通じないし、相手が何を言っているのかまるでわからない。ベテラン社員が、ロビーはどこかと聞かれたのに対し、「オール・アラウンド・ヒヤ(この辺一帯です)」と答えたのにひどく感心して、次に私が、「トイレはどこか」と聞かれたのに対し「オール・アラウンド・ヒヤ」と答えて客に妙な顔をされたのを憶えている。煙草のホープをくれと言われて、食器のフォークを持って行ったり、夜中に火事が発生して、「この管内[イン・ジス・デイストリクト]」を「この館内[イン・ジス・ハウス]」と聞き違えて、ホテル全館を起こしてしまったこともある。部屋番号一つにしても学校英語とはちがう。例えば1111番を外人はダブルイレブンという。英語にまつわる失敗は多いが、それでもはじめて自分の英語が外人に通じたときの喜びは、いまだに忘れられない。
ホテルというと単に泊まるところと一般の人は考えがちだが、単に泊まるだけの利用を業者は寝室的利用と呼んで、ホテルの最も単純な利用法である。現代では商業的利用(ビジネス出張あるいは会議など)、観光的利用、家事的利用(冠婚葬祭等特に新婚旅行)、遊興的利用(情事が圧倒的に多い)等が多い。その他犯罪や逃避などに使われることもある。今や単純な寝室的利用者は極めて少なくなっている。
私は大都会の都心ホテルばかりを転々としたので、接遇した利用客も商用、家事、遊興的利用者が多かった。この中でも手こずらされたのは、遊興的利用者である。明らかに売春とわかる利用者は、フロントのチェックイン(投宿手続き)の段階で断ってしまうが、一人で投宿しながら後になってから女性を引っぱり込む客が最も困る。特に一人部屋にパートナーを連れ込む客は不法宿泊である。このような場合、客は情事達成の直前を、ホテル側に阻止されるので烈火のように怒り狂うのが常道である。これは客のほうが間違っているのであって、今夜のお目当てがあるのなら、コトの成否にかかわらずあらかじめ二人部屋を二人名義で確保しておけば、かなりいかがわしい女性を連れ込んでも、ホテル側は大目に見てくれる。ホテルに宿泊するカップルの過半数は夫婦ではない。この率は、リゾート地のホテルへ行くほど高くなる。夫婦あるいは恋人関係にない男女[カップル]は、概ね次のような特徴がある。A 年齢差がある。 B 服装やアクセサリーの趣味がちがう。 C 女性がなるべくフロントの死角にいる。D 東京の場合都内に住所がある。E 荷物をほとんど持っていない。F 当日予約か、あるいは予約なしで飛び込んで来る。G 到着時間が遅く、男は酒気を帯び、レジスターカードに職業を明確に記さない等である。またこちら側が前金[デポジット]を要求しないのに手際よく出す客も怪しい。
世間体を気にする芸能人や著名人同士が浮気をする場合に、まったく無関係者のごとくよそおって、部屋を二つ取りチェックイン後一室に合流する手はよく使われる。このような場合の女性の部屋はまず使われないので、我々従業員の絶好の宿直室になる。だが稀に女性側の部屋に合流することがあり、うっかりそちらの方へ行くととんでもないことになる。
ホテルの最もホテルらしい性格は、午後十時以後から現われる。私は現役中、四日に一度くらいの割でフロントの夜勤[ナイト]を受け持っていたが、この勤務帯[シフト]の間にさまざまな事件に際会した。新婚旅行の嫁さんが真夜中になって逃げ出し、夜勤従業員が手分けして探しまわったり、失恋した女性が恋人に処女を捧げた思い出の部屋で、睡眠薬を呷[あお]り、家族に最後の電話をしている最中に昏睡してしまった事件などに出会った。電話が接続状態になっていたので、逆探知の結果ホテルまではわかったが、どの客室からかけているのかわからない。その女性は独りで泊まっており、千室以上の客室の中からその一室を可及的すみやかに探し出さなければ女性の命が危ない。推理小説を地で行くようなスリルがあった。横暴な客にもよく見[まみ]えた。私が宿直の夜の明け方近く、若い男がくずれた感じの、いかにもそれと知れる女性を伴って来て部屋を求めた。当然断ると、男はとたんに荒れ出して、これだけの大ホテルで隠し部屋の一つや二つ無いはずがないと、フロントカウンターのフェンスを叩き壊した。器物損壊の現行犯で警察につき出すと、この男が一流商社の社員で、近日中に良家の令嬢と結婚することになっているという。母親が私の元へ来て、どうか示談にしてくれと土下座して謝った。その母親のために示談にしたが、私はそのとき彼から浴びせられた悪口雑言を今でも胸に刻んでいる。