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「古着と自転車 ― 永江朗」暮らしの雑記帖 から

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「古着と自転車 ― 永江朗」暮らしの雑記帖 から

 

【古着の念について】

着物には、それを着た人の念がこもっている。こういう話を呉服屋で聞いた。だから、リサイクル着物が流行っているけど、やっぱり着物は新品がいいわよ、というのである。

私は霊だの念だの占いだのは一ミリだって信じないが、この「着物の念」はちょっといいな、と思う。念がこもっているからいやだというのではなく、逆に、念がこもっているのなら古着を着たいと思う。

着物にかぎらず、服は身につけるとその人の癖がつく。布は柔らかくて伸び縮みするから、体型や身体の動かしかたが服の癖になる。からだに「なじむ」というのは、この癖がついた状態だ。オーダーメードのスーツなどは、新品の状態からその癖をつけたものだと言い換えることもできる。

「癖」や「なじみ」は、服にとって持ち主の記憶だ。古着に袖を通すとき、この服のかつての持ち主はどんな人だったのだろう、と考える。骨董の茶碗を手に取るときも、昔、どんな人が子の茶碗でお茶を飲んだのか、と考えるけれども、服の場合はもっと生々しい。古着を着ると、すっぽりかつての持ち主の中に入り込んだような気持になる。

 

 

【時代と古着】

一九七〇年代ぐらいまでは、古着は新品を買えない人が買うものだった。「おさがり」というのも、ごく普通のことだった。おさがりは兄や姉から、サイズが合わなくなってもう着られないものを譲り受けること。兄・姉ではなく、いとこや叔父・叔母だったりすることもあった。ただ、血縁関係の距離が離れるにつれて、おさがりをもらうことへの抵抗感が増した。叔父やいとこからのおさがりと、近所の誰かのものとでは、ちょっと感覚が違う。それは古着やおさがりにまとわりついていた「貧乏」というイメージゆえだけでなく、以前の持ち主の中に入り込むような気持ちからかもしれない。

七〇年代の終わりごろから、古着に対する感覚が変わってきた。決定的だったのは、原宿にできた「シカゴ」だろう。アメリカからジーンズやTシャツなど、カジュアルウエアの古着を買いつけてきて売っている店だ。雑誌『ポパイ』などによる西海岸文化のブームが人気の背景にあった。国産の新品よりも、輸入の古着のほうがかっこよかった。

私がはじめてリーバイスの501をはいたのは一九七七年の夏で、吉祥寺のジーンズショップで買った。防縮加工をしていない501は洗うと激しく縮む。乾燥機(そんなものはコインランドリーにしかなかったけど)にかけるともっと縮む。しかも新品の501は硬くてごわごわしていた。そのため、501は新品よりも古着を買うのが「通」だとその店で教えられた。

一五歳年長のいとこからツイードのスリーピースやペイズリーのシャツを譲り受けたのもそのころだ。彼が六〇年代の終わりか七〇年代のはじめに着ていた服だ。少し流行遅れの服には、滑稽さやみすぼらしさが漂うが、これくらい遅れてしまうと、周回遅れの余裕というか、ちょっと面白い感じだった。

九十年代以降になると、世の中の古着に対する感覚はさらに変わった。バブルのころ、「パリやロンドンの若者はブランド品なんか身につけない、親や祖父母から譲り受けた服や小物と、古着屋で購入した服、自分で買ったシンプルでベーシックな服などをセンスよく組み合わせている」といった記事をときどき目にした。それに比べて、日本の若者はブランド品に夢中になって恥ずかしい、というニュアンスだった。だが、九十年代になると、渋谷でも代官山でも下北沢でも、古着屋で買ったと思われる服をうまく組み合わせた少年少女たちを多く見かけるようになった。むしろ新品の「おろしたて」のほうが、かっこ悪いのかもしれない。


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