「色川武大追悼 - 吉行淳之介」ちくま文庫 吉行淳之介ベスト・エッセイ から
色川武大とのつき合いにおいて、最初から最後まで「知ってびっくり」ということがかさなった。
五年前に亡くなった藤原審爾と、一時期しばしば麻雀をしていたことがある。昭和三十四、五年の頃、メンバーが一人足りないとき、藤原が若い男を連れてきて、
「これ、色川というんだ」
と紹介して、あとは何も言わない。
「中学の同級生に色川というのがいたが、珍しい名だね」
ここの会話が、へんに記憶に残っている。
「自分は頭がやたらに大きい異相だったので、それがモトで小学校の頃から内向的になり、はみ出してしまった」という意味のことを、色川武大は書いている。しかし、そのときは痩せた色の黒い無口な男だな、とおもっただけだった。
そういうつき合いがつづいているうちに、昭和三十六年に「黒い布」という作品が、中央公論新人賞を受けた。「小説を書いている男だったのか」とそのときはじめて知って、その作品を読んでみると、なかなかの佳品だった。ただ、むしろ楷書風で、後年のものとはかなり作風がちがう。
この原稿を書くに当って、本人自作の年譜を調べてみると、筋のとおった文学青年の時期がある。昭和二十八年(二十四歳)のころから、庄司總一たちの「新表現」や有馬頼義たちの「文学生活」に入ったり、同人雑誌「握手」をやったりしている。一方、生活費かせぎに変名で娯楽小説を百篇あまり書いたという。「黒い布」のあとは、なにも書かない。船橋聖一主宰のキアラの会編集の「風景」という小冊子があって、昭和三十八年には無給編集長をやらされていたので、色川武大に一作書いてもらった。「蒼」という短篇で、これはこれで良かったが、散文詩に近い作品だった。
こういうことも、「知ってびっくり」の一つだが、もっと大きなものは、知らないまま進行していた。すなわち、麻雀のことである。藤原審爾の雀豪としての名は高く、その腕前についてのいろいろの伝説が残っている。私は戦争中から、警防団に怒られながら打っていたが、下手の横好きの麻雀である。色川武大と卓を囲んでいても、なにも悟らなかった。ただ、けっして負けずにすこしだけ勝つ、ということをつづけているので、なにかヘンだなとは感じていた。
四十四年に、『週刊大衆』に阿佐田哲也「麻雀放浪記」が連載になり、評判になった。読んでみると面白いのを通り越して、素晴らしいエンターテインメントだった。麻雀をあまり知らない読者にたいしても、十分に通用する。当時の柳橋編集長にそのことを言うと、「あれは、匿名の作者です」と言った。
そのとき「あ、それは色川武大だ」と確信した。なにかヘンだな、という感じが甦ったのである。それでは、私たちと何年にもわたって打った麻雀はなんだったのか。
藤原審爾はふところの深い人物で、色川武大は私淑しているところがあった。藤原の影響もあるのかどうか、似たタイプになってきていた。たとえば、夢を喰うといわれる獏が夢を見て、ボーッとした顔をしているようなところがある。また、二人とも笑顔千両であった。
「あの頃は、ぼんやりと麻雀を打っていた」
と、後年、色川武大は言っていたそうだ。
私も何度か藤原の雀力について質問してみたが、露骨には言わないにしても、「旦那芸としては一流」というあたりが結論だった。私淑している相手といえども、こと麻雀となるとキビシイのである。さりとて、そういう場で大きく勝つわくにもいかず、すこしだけ勝っておこうというあたりに、プロの腕前を使っていたらしい。
『麻雀放浪記』の頃、色川武大との対談に引張り出された。当然、「阿佐田さん」と呼ぶことになる。仕事が終ったとき、
「阿佐田さん、と呼ばれたときには、ギョッとしましたよ」
と、私に言った。
色川武大としての小説について、志があったわけだ。
そのあと五年間、阿佐田哲也の作品がつづき、四十九年から色川武大の名で短篇連作「怪しい来客簿」を『話の特集』に載せはじめた。これは、私の最も好きな作品である。
久しぶりの色川武大名義の作品の出現はめでたかったのだが、五十一年に不意に胆石で倒れた。一時は危篤だったが、病院を移って再手術し、助かった。その頃、病院にいる色川武大から電話がかかってきて、用件があるような無いような口ぶりだった。かなりあとになって、「あのときは死ぬとおもったんで、幾人かの人に電話しました」と言っていた。
入院の翌年からにわかに執筆量が増え、死の直前まで行った人物とはおもえないほどだ。『怪しい来客簿』が単行本になったところからはじまって、『離婚』、『百』、『狂人日記』と秀作がつづき、それぞれ文学賞を受賞した。
色川武大には、突如睡魔に襲われるという子供のときからの持病があった。それは、数秒で元に戻ったり、そのまま眠りこんだりしていたが、その間に奇怪な幻影を見るのだそうだ。それがナルコレプシーという奇病だということは、『怪しい来客簿』の頃にわかったが、原因も治療法も不明だそうだ。近年も、大会麻雀で対面同士になって打っていると、色川武大の腕の動きがギクシャクしはじめて、ロボットみたいになった。
そして、顔を上げると泣いたような眼になって、私を見た。いや、おそらくなにか異様な幻覚を見たのだろう。
「ちょっと、顔を洗ってきます」
と、立上ると、洗面所のほうへ行った。
この三年間、私は病気が幾つもかさなっていて、街に出ることができない。それまでは、銀座にある地下室のバー「まり花」へ行くと、しばしば色川武大に会うことができた。会って、とりとめのない雑談をして、それだけで私は愉快だった。
元号が改って、その二月十八日に色川武大の予告なしの訪問を受けた。スケジュール表のその日に、「色川来ル」とメモがある。二十年ほど前から、私は訪問することもされることもあまり好まなくなり、彼が訪れてくるのも初めてだった。
色川武大は大きな紙袋を提げていて、大国主神のようだった。その袋から、三鞭丸のアンプルやロイヤルゼリーやそのほか漢方系の元気の出る薬を一山、テーブルの上に積み上げた。そして、これから結城(昌治)さんの家に行く、と言った。袋の中身は半分残っていて、それを届けるのだという。
こういうことは偶然に過ぎない筈だが、いまにしておもうと、袋を提げて歩き出した色川武大は、ちょっと立止った。そして、「ま、これでいいか」と呟いて、巨体を揺らして立去ったような気になってくる。
それが、色川武大を見た最後である。