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「山への作法 - 今西錦司」旺文社文庫 山の随筆 から

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「山への作法 - 今西錦司旺文社文庫 山の随筆 から

近ごろは山登りが盛んになってきた。いろいろな服装をして、いろいろな流儀で登る。山は同じであっても、ハイカーはハイキング・コースだと思って山へ登るし、またなにかしに山へ登らぬことには流行遅れにでもなるように思って登る人さえある。そうかと思えば五、六百メートルの山へ登るのにさえ大きなリュックサックを背負い、物々しく抜身のピッケルをかかえた人を見受ける。
こんなことはなにもその人の好きずきで、山へ登るのにどうでなければならぬというむずかしい詮議立てをしてみたところではじらないし、せいぜいおおぜいの人が山へ登るようになることはけっこうではあるが、その代わりにおおぜいの中には誤って遭難する人ができるのもまたやむをえないことかもしれない。けれどもこのおおぜいの中にはまたきっと山登りをもっと真剣に考えて、山登りは山登りとして、ハイキングなどとは別個の立場にあるものというふうに考えている人たちもあるだろう。少なくとも学校の山岳部などというものの存在する理由は、単なる物見遊山や運動という意味以外のものが、考えられてもいいのじゃないかと思う。
それについて私は「登山家」というものを考える。山に道が開け、小屋が建って、山登りが楽にできるようになったといっても、一歩踏み誤ればそこは依然として深山幽谷であり、また人間の施設によって山の暴風雨が緩和されるようになったわけでもない。すなわち山の都会化ということは、近接の町村が大都会に包含されて行くのとは違うのである。登山道を都大路の延長と心得て漫歩しようと、あるいはシャツ一枚で頂上まで駆け登り、また駆け下ってこようとも、精神上・肉体上にはかならずなんらか登山の効果は認められるに相違なかろうが、それではまだ登山家とはいえないであろう。
ほんとうの登山家とは山のことをよく知っている人であり、それゆえ登山家になろうと思えばまず山を知ることからはじめねばならぬ。山登りなどはどうせ身体でさえあればだれにだってできることで。とくにむずかしい登山術などという術を修練しなければならぬほどのものでもなく、むしろ登山家の間に山の登り方というものがあるとすれば、それは山を知ることによっておのずから体得されるところの、山登りの一種の礼儀作法のようなものではなかろうかとさえ、私は考えるのである。
たとえば一つの山道にはおのずから休み場というものがある。水が流れていてベンチがしつらえてなくとも、こういう休み場で休んで変なところで休まぬことは山登りの一つの作法である。泊り場にしたところで、どこでも泊り場に適しているわけではけっしてないのだ。そしてこういう場所にしばしば地名さえついているのは、土地の人たちに古くからの休み場、泊り場てして用いられてきたからであって、お互いにたいせつにするべき場所であるにもかかわらず、都会から来た心なきものにかぎって弁当がらやなんかを散乱させて行くのを見ると、山登りは盛んになっても山登りの心得はなっていないと感ぜられる。
山には悪場というものが多かれ少なかれある。谷筋における滝などもそうであるが、こういう悪場にぶっつかったときには右にまくか、左にまくかということは地勢上おのずからきまっていて、よりたやすいほうをとるのが正しい道の選び方なのであって、そういう場所では獣の通る道も人の通る道も一つになっていることさえ多いのに、もし獣も通らぬ悪い側を選ぶようなことをすれば、それは山の作法に反するばかりではなく、往々それがために危険に曝されて、こんなことで生命を失なうようなこともないとはかぎらぬ。
だから山登りは簡単なようであっても、自分の一挙一動がつねにぴったりとその山にあてはまって、そこにいささかの無理もなければまたむだもないといったようになるまでには、一朝一夕の経験ではとうていだめなのであって、またそこまで行かねば、できあがった登山家とは申しがたいのである。
そしてまたそこまで行かねば、ほんとうに山登りの味もわかったとはいえないだろうし、またそれでこそ山登りにはハイキングや一般スポーツと異なった立場があるともいいうるのである。それで山登りらしい山登りをしたいと思う人は、他のどんな技芸についてでも同じであるが、その道の達人についてその動作を見習うようにするのが一番いいのであるが、残念なことには山登りが盛んになったとはいっても、わが国ではまだその歴史が浅いからであろうか、山へ登ってもここまでできあがった登山家というものはあまり見かけないように思われる。
ところでこういうことになると、生まれながらの山育ちで、若いときから獣を追って山から山へ渉り歩いた老猟師などというものは、知識の程度は低くとも、その経験によって山歩きの礼儀作法は一通りも二通りも心得ている。だから日本アルプスの草分けをやった人たちは、たいていこういう猟師をさがし求めて、その先達によって山へ登ったのであったが、山に道標が立った、小屋もできた、案内書もたくさん発行されているからといって、それから直ちにこういった先達の不要を叫ぶ者があったとすれば、それはすなわち登山の一面しか考えて見ない人ということができるのであって、むしろ反対に今日のような状勢では、適当な先達の不足をこそもっと問題にされるべきではなかろうかと思う。
そんなわけで、立派な登山家の薫陶を受ける機会のない初心者は、あえて老猟師とはかぎらずとも、郷に入っては郷にしたがえで、その山をよく知った土地の人に教えを乞うて、細かくいえば、まず足の運び方、土の踏み方から習ったがいいであろう。そしつ経験者といえども、都会生活を送るものが、わずかの暇を盗んで得たぐらいの経験はどうせたいしたものではない。われわれは山に対してはいつになっても初心者であるという謙譲な気持ちを、つねにもっていたいものである。
(一九三六)

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