(巻二十五)大川の上げ潮時や鳳仙花(後藤章)
3月15日日曜日
(散歩)
コンビニで珈琲を喫した。使ったお小遣いはそれだけ。
金、土、日で都合二百円の支出であるがこのムードがそうさせるのか?
通過するバスには乗客が一杯詰まっているので皆さん家に籠っているわけではないようだ。
流行風邪コンビニの灯をたのみかな(阿倍セツ子)
ついでの買い物ではトイレと風呂の洗剤を調達いたした。トイレ・ルックとバス・マジックリンである。トイレ・マジックリンもあればバス・ルックもあるが、そういう取り合わせのオーダーなのであります。
帰宅して、息子の部屋で暖房をかけてウトウトした。暖房の要る陽気ではないがエアコンを使わないでおくと具合が悪くなるので週に一時間ほど稼働させている。
抵抗を感ずる熱さ煖炉あり(後藤夜半)
使わないと衰えるのはエアコンばかりではない。足腰が弱ってはどうしょうもないので五千歩を目標に彷徨いているが曳舟川以外は散歩に向いていない。
頭の方は読書とBBCだが、受け身ばかりではまずいのだろう。クリエーティブに参りたいが下地がないので困った。“アイデンティティ・クライシス”であります。
兜町足から枯れていく男(秋尾敏)
(読書)
「アイデンティティ - 結城昌治」文春文庫 巻頭随筆4 から
を読んだ。カタカナ語についての御意見であります。
《 レストランで「ご飯」を注文したら「ライスですか」と聞き返されたという話は私自身も経験しているが、容器が茶碗や丼なら「ご飯」で、「ライス」は洋食皿の場合をさすと聞けばなるほどという気がする。外来語の横行とはちょっと話が違うのである。
しかし、ご飯とライスの使い分けなどは愛嬌だが、意味が分からなくては話が通じないのにやたらと外国語をつかう人たちがいる。たとえば「アイデンティティ」、難しい言葉である。新聞などでよく見る言葉だが、なぜこういう舌がもつれそうな外国語を使うのか、もとは社会心理学の用語らしく、たまに(自我同一性)と括弧をつけたりしているけれど、やはりいっこうにわけが分からない。しかも筆者によって意味が異なるように読み取れることがあり、いったい誰にむかって書いているのか、私などは読者対象から除外されたようでひがみたくなってしまう。 》
結城昌治氏の小説は読んだことがございませんが、氏の俳句を書き留めてございます。
柿食ふやすでに至福の余生かも
おとろへしいのちに熱き昼の酒