「僕らの結婚 ー 佐藤春夫」日本の名随筆31 婚 から
文字通りに読めな人には恥あれ
一
谷崎とお千代とは同じ家に棲んではいたが、それはほんの名ばかりのもののようであった、どんな心持とどんな態度とでそうであったかは谷崎の作品「蓼食ふ蟲」を見ればわかる。あれは創作ではあるが、決して絵空ごとではなく、その点ではまだ描き足りないと思えるほどである。ただし、 お千代はあの作品に出てくる夫人のごとくモダン・マダムではない。
谷崎にとってお千代はじつに大切な邪魔物であった。谷崎はお千代を不幸にしているのは自分だという自責の念をいつも忘れることはできなかった。そのくせ、お千代を幸福に導くために努力する気にはいっこうなれなかったらしい。谷崎は、一口にいうと宿命的にお千代が嫌いであったらしい、極端に好悪のはげしい人で、この谷崎に幸いにもぼくはひどく好まれているらしい。ぼくのことはしばらくきておくとして、お千代が谷崎に好かれないのには、谷崎に言わせるといろいろの理窟もあるが、客観的にみてはほとんどなんの取りあげるべき点もない、けっきょく、性が合わないとか、また谷崎の言葉にしたがえば体質が合わないとかいうよりほかにしかたがない。
ごく最近、お千代が自分の夫の谷崎に対して真剣に申し出た希望は、
「せめて一日に一時間だけ、ご飯の後でもなんでもみんなと仲よく話をしてほしい。」
という言葉であったのを聞けば、この夫婦の行きづまった状態がはっきりするだろうと思う。
それならば谷崎はお千代をまったく無視して振舞っているかというと決してそうではない。 お千代に空閨を守らせておくかぎりは、自分が他の女性と交渉を持つこともお千代に対して差控えるべきだというような、ちょっと世間一般には了解されそうもない気持を強く抱いている。これらの例からみてもわかるとおり、谷崎は一面では非常に律義な男である。
世間並ならば、彼ら夫婦はおそらく、一年半とは両方で我慢しなかったろうと思う。谷崎の性格、お千代の気質、そういうものを知らない世人が、一口に十六年間表面的に夫婦であったというだけを知って、これらの点を空想することはできないのだから、事件は根本からわからないわけである。ぼくは谷崎夫婦のこの苦業にも似た生活を、無駄な人間味のない努力とは思いながらも、多少尊敬する気持にさえなっていた。
ぼくは谷崎を敬愛すると同じ程度でお千代をも敬愛してきた。今日においてもそのとおりであるし、明日においてもかわらないだろうと信じている。ぼくのこの心持を文字どおりに理解することのできない人々にとっては、以下の文章はますます出でてますます不可解になるばかりであろう。
こういう変った関係の夫婦の間で、それではその両方を敬愛しているぼくはどんな立場にあっか。ぼくは幸いにも谷崎からもお千代からも、ぼくが彼らに対すると同じように敬愛と信頼とをもって酬いられ、彼らは双方から互いにその時折の誰にも打明けない心持を、ぼくにだけは明かしてくれた。そうしてぼくはその二つの心の間に挟まって通弁を試みてきた。言いかえるとぼくは谷崎にとっては親身の弟のごとく、お千代にとっては兄のごとき友情を抱いてきた。これは第三者の目からみてもその通りであったとみえて、谷崎の弟終平のごときもその一身上の問題を潤一郎以上にぼくに相談をしたし、お千代の兄の一人のごときもお千代と谷崎との間を善処するためにぼくに要次相談してくれた。これが最近四五年来ぼくと谷崎夫婦との間柄で、ぼくはこの間に立って幸いになんの間違いもなく人々の信頼を裏切らずにきたと思っている。これはぼくにその値打があるからにとっては親身の弟のごとく、お千代にとっては兄のごとき友情を抱いてきた。これは第三者の目からみてもその通りであったとみえて、谷崎の弟終平のごときもその一身上の問題を潤一郎以上にぼくに相談をしたし、お千代の兄の一人のごときもお千代と谷崎との間を善処するためにぼくに屢次相談してくれた。これが最近四五年来ぼくと谷崎夫婦との間柄で、ぼくはこの間に立って幸いになんの間違いもなく人々の信頼を裏切らずにきたと思っている。これはぼくにその値打がからではなく、人々がぼくを信じてその位置に据えてくれたからだと思っている。ぼくは自分で自分のだらしのない人間だということはよく知っている。しかしかりそめにもお千代の雑[まじ]っている問題についてはいついかなる場合にも間違いをしでかしたと思うことはない。これはもっぱらぼくがお千代を尊重する気持から出たものである。それほど深い愛情を感じさせたお千代に対してぼくは感謝している。
迫々ともっと具体的に話す。
二
谷崎はお千代を愛していないのではなかった。愛しているが好まなかったのだ。いっさいはこの矛盾からきている。十年前にぼくは谷崎に対してお千代の可憐にして愛すべく真純にして敬すべき一面を教ええたと思った。実際、谷崎も十分それを知ったはずであった。ところが愛することと好くこととは別なものとみえて、けっきょく、愛することはできても好むことはできなかったらしい。それが十年たつうちにだんだんはっきりわかってきたとみえる。律義な谷崎は彼自身よりもぼくの方がより深くお千代を愛し好み致していることを知ると同時に、お千代はぼくの妻であるのが至当だという考えを持つようになったらしい。(これらの点は後になって明瞭になったのだが。)
しかし当時ぼくにはすでに妻の多美子があった。不幸にも多美子とぼくとの間柄もどうも面白く折合わなかった、多美子はこの間の事情を訴えて夫婦別れの相談を谷崎にはかったこともあった。 むろんぼく自身も谷崎に相談したこともあったが、谷崎はいつも夫婦のことは夫婦だけで自決するのがいいと答えて立ちいることを避けた。ぼくが別れてしまおうと思うといえば黙っているし、どうしたらいいと思うかといえば黙っているし、去年の暮に会った時のごときは、大曲を自動車で通りながら、
「君も我慢をして少し努力をするのだね。」と忠告してくれた。しかし去年の十月から胚胎してこの五月になっては固い決心になってしまったぼくの夫婦別れは六月の初旬になって破局をみ、中旬にはいっさい悲しく解決がついてしまった。ぼくは多美子にも多少の未練もあり、それよりももういっそう多美子のつれ子でぼくのところで六つから九つの今日まで、ほとんどぼくの手で育った美代子に異常な愛着があったが、思い切って離別することが、美代子のためには可哀そうだが、夫婦のためには上分別だと思いもしたし、間に立った人々もぼくの思案を正当とみたので、こうするよりほかに方法はなかったのである。多美子はかならずしも悪い性格ではない。むしろ一本気のうなずける気風ではあるが、ぼくのところではその美しい側の性格を発揮することはできなかったのだ。この責の一半はぼくにもある。つまりぼくは多美子にぼくを信頼させることができなかったのだ。ぼくのところではねじけてしまった多美子も、相手さえ性の合った人をえらべば、また幸福もあるだろうと思うと、無関心で一つ屋根の下に住んでいるよりも、離別するのがよろしいとぼくは思ったのである。
六月の中旬になって多美子とのいっさいはすんだ。そのごたごたの間自分は帝国ホテルの一室で、もう半年書き続けている「大阪朝日」の原稿を書き喘[あえ]ぎながら、事件いっさいの経過を報告し原稿すみ次第京阪地方へ遊びに行くが寂しいから大阪駅まで出迎えにきてくれといってやった。ぼくのつもりではぼくのこの悲しいさびしい気持を二人の親友―――谷崎とお千代とに慰めてもらいたいと思ったのだ。多美子の事件で窮乏をきわめたぼくは、当分この二人の家の食客になろうと思った。しごともできそうにもなかったし、それにその前後からぼくは酒に親しむようになり、京阪の酒を飲みたくなっていた。そんなことを自分から言ってやっておきながら、ぼくは東京で金のある間は酒をのみ、その間に自暴自棄に近い気持になって、酒量もいつの間にかブランデ一本ぐらい平らげるようになっていた。浮気か本気かわからないような女の相手もこの間にひとりできてしまった。相手が本気だったらたぶんぼくも本気になり、そうして後では悔を感じたことであろうと思う。しかし浮浪人のような生活ははんらいぼくの性には合わない。ぼくは家庭生活を愛している。美代子を養育してから、特に切にこれを知った。ぼくは今まで三度も結婚生活に失敗していながら結婚そのものを呪ったことはない。自分の不明と不真面目からいつも相手をみあやまり、そのつど相手をも自分をも不幸にしたという後悔だけは感ずるが。
約束より十日以上もおくれ、電報してからも二三日おくれて大阪へ行ってみると、谷崎は前夜もむなしく出迎えてくれたという。車中でまだ夕飯をすましていなかったぼくに、谷崎は行きつけのある家へ案内してそこで食事をとらせながら、ぼくを慰め、ぼくが離婚したのは今までの経過から当然の帰趨で、むしろ賛成だといった。それからぼくは、今度は心持のやわらかい関西の女を女房にしたいなど、なかば冗談に話すと、谷崎は真面目な表情をして、
「どうだ君はお千代と結婚する気はないか。そうなるとぼくの方も非常に救われるのだが。じつはぼくにはひそかにこんな願いもあり、それだけに君や多美子さんから相談を受けるのを避けていたようなわけでもあったのだが。」
それに対して、ぼくはすぐには返事もしなかった。というのはお千代には今さらそんな気持がないことをぼくは知っていたからである。それでぼくは答えた。
「お千代にその気でもあればだけれどもね。」
谷崎は無言で、その話はそれきりになった。
十一時ごろになって谷崎の家へきてみると、お千代はぼくを待っていた。谷崎と口をきくこともないお千代は、ぼくが多美子と別したこともまだ知らぬらしく、いつものごとくぼくが新聞のながいしごとを終った骨休めに遊びにくるのだと思っていた。そうして、
「小父さんのところへ手紙を出していっぺんきていただこうと思っていたところでしたわ」
と言った。娘の鮎子がぼくのことを小父さんというのでお千代もいつの間にか、ぼくをそう呼び慣わしていた。その理由を聞くと、谷崎との状態が今までのうちで最近にもっともいけなくなったので、ふたたびぼくの通弁が必要となったのだそうである。
お湯に入って寝床に入ると、すぐお千代は足もとの蚊帳の外へおやすみをいいにきた。
「お千代さん、ぼくはとうとう多美子と別れてしまったよ」
「本当ですか」
お千代は軽い驚きをなして、しかしすぐに涙を拭うているのが明るい電燈の下で蚊帳ごしにみえた。改めておやすみをいうお千代は、その柱のかげにあったスイッチを消して部屋から出て行った。
ぼくと多美子との間がうまく行っていないのは、お千代もその半年ばかり前から知っていた。
そうして「あなたの方だけでも、うまく行ってい ・うまく行っているとばかり思っていたのに」といって嘆いたことかあったので、今度の離婚の話も説明なしにわかったのであろう。そうしてぼくと多美子とのために同情の涙をそそいでくれたのであろう。お千代は戻っぽい女で、谷崎はそれをうるさいといったものである。
三
ぼくは谷崎を知って満十三年になる。谷崎はぼくの文学的生涯の再生の恩人である。当時谷崎はある恋愛事件のためにお千代をまったく無視して生活していた。今にして思うとまったく無視していたわけではなかったのを、ぼくにはまだ交りが浅く、かつ人生を知ることもすくなく、谷崎の全部がわからなかったので、お千代を虐待しているようにみえたのである。ぼくはお千代に同情する前に谷崎に忠告した。それからお千代の美点を谷崎にいろいろ言ったものだが、谷崎はそれはぼくがお千代を好いているので、よくみえるのだといって受けいれなかった。実際、ぼくはお千代を好んでいることは谷崎に打明けていた。谷崎はお千代のことを一口に馬鹿だといっていたものだ。ぼくはそれで「神聖な馬鹿」と言い直した。
お千代は当時、自分が夫から愛されていないことを感じながら、それがどんな理由からであるかを知らなかった。隣人たちがお千代に同情して、谷崎の恋愛事件をそれとなくお千代に聞かせても、お千代は決して耳を傾けなかった。それでも最後にとうとう、夫の唯一の親友であるぼくを通して、お千代は谷崎になぜ自分を愛してくれないのか、その心持を確める気になった。つまりぼくが通弁を頼まれた最初の機会であった。
こんなことをしているうちにぼくはお千代がますます好きになり、 谷崎も解決の一つとして、自分がお千代を離縁してぼくと結婚するようにはからったのであった。谷崎の理解があってぼくはお千代に自分の愛情を打明けると、お千代の心もすぐに私の感情に酬いた。
しかしそのうちに谷崎の考えは動揺して、恋愛事件の方は打切ってもう一度改めてお千代との結婚生活をやり直す気になった。ぼくとお千代との感情が白熱している最中に谷崎の考えがそう変ったのはぼくにとっても当時のお千代にとっても相当に悲しいことであったが、もともとぼくはお千代の幸福を願って夫婦の話の間に立ったことでもあり、お千代はまた子供のことを考えたり、夫の希望を考えたりすると泣く泣くでもぼくに対する感情を捨てなければならない場合だと思ったので、ぼくは一面でお千代を励まし、一面では自分を励ましてその渦中から逃れ出てきた。お千代が二十五の年の秋から翌年の春、ぼくは二十九から三十であった。思えばちょうど十年目になる。その頃六つであった鮎子が、今はもう成人に近くなって、今度の出来事に対しても一応の理解を持てるようになっている。人生の須臾[しゆゆ]なることを今さらに感じられる。
ともあれ、十年前に、ぼくとお千代とは愛を語った。その境遇にも似ず、お千代の純真な感情と貞潔に対する先天的な資質とは、ぼくに対して普通一般の愛以上のものを学ばせた。そうしてもし望みさえあれば、そんな機会はいつでもありながら、ぼくとお千代との愛情はプラトニック・ラヴに終始した。もしあの時、ぼくとお千代がどんな関係を結んでいても、谷崎は文句をいう理由は少しもない事情にあったが、しかしそれにしてもそんな関係にまで踏みいっていたら、ぼくはお千代をそれきりかえりみる気になれなくなっていたかも知れない。この同じ気持はお千代も折にふれてぼくに話すことがある。
ぼくはお千代を悪[にく]みも怨みもしなかった。ますます敬愛し愛慕し、そうして谷崎には多少の不満を感じながら、その立場から身を退いた。そうして半分は谷崎に対する憤懣から、半分はお千代に接近していることの危険から、ぼくはその後六年ほどの間谷崎夫妻に遠ざかっていた。胸底ではいつも彼らの幸福を切願し、また信じてもいた。
そうしてぼくはこの間に多美子と結婚したのだ。歳月とともに美しい友情の記憶だけが残ってぼくはふたたび谷崎に対して以前にもまさる友情を感じていた。そのぼくの気持を察して、ある機会に―――それはぼくが多美子に失望して自暴自棄に陥り、多美子にも非常な心配をかけた折であったが、多美子はちょうど谷崎が京阪から上京していることを知って、ぼくに谷崎を会わせるようにはからった。六年間打絶えていた友情はなんの不自然もなく、すぐそのままつながった。谷崎とぼくの友情を復活させた仲介者はじつに多美子だった。
まず谷崎に会ったぼくたち夫婦は、半年たってその翌年の春京阪へ行って、谷崎夫妻に会うことになった。今にして思うと、多美子はぼくにお千代を会わせることについては多少の不安を感じ、 しかしそれを言明することができないのでヒステリカルになっていたように思い合わされる。しかし谷崎は夫妻の間柄について何事をも言わなかったから、あくまでその後うまく行っているものに信じているぼくは、お千代に会うことに少しの不安も感じなかった。ただもう二度とは逢えないかと思ったお千代に、その間に震災などの出来事がありながらまた会う日があったのを喜ぶ心持は、あたかも自分ながら小説のなかの人物かなどのような気がした。
ぼくは自然な感情よりもわざと一歩退いて、お千代との交際をふたたびはじめた。それは谷崎に対する気がねなどは少しも必要とも思わなかったが、むしろ多美子に対する気がねから出ていた。 ある時、谷崎は必要があってぼくにお千代に対するぼくの気持をたずねたことがあったのでぼくは答えた。
「完全に、兄の妹に対する友愛になった。」
これがぼくとお千代との愛の歴史である。
四
谷崎から相談を受けたぼくは、たいした感情も雑えずに谷崎の言葉と自分の言葉とをそのままお千代に伝えた。別にお千代に相談をするというほどのつもりでもなく話したのである。ぼくとお千代とは万事そういうふうに、端的になんでも話し合うようになっていたので、この場合でも別段不自然をもなにをも感じないでいた。聞いた方でも私の心持よりも、谷崎が今でもそんなことを考えているのを物足りなく思うような様子であった。でもその晩には谷崎の弟の終平を仲間にいれて、 夜おそくまで話しつづけた。これもお千代とぼくとには別に珍らしい現象でもない。
谷崎はまた谷崎で自分からお千代に話を持ち出した。お千代は谷崎の言い分を聞いて熟考してみると答えたそうであるが、数日考えた上では、お千代は谷崎の相談を受けいれなかった。その理由として、第一に十六年もいたところをたやすく動く気にもなれなかったし、第二にはぼくの心持が友愛の気持で完成されているものを今さら動かしてみて、それが夫妻としてうまく調和すればいいが、もし万に一まずく行った場合には、今までの友愛さえ失うことになり、それでは取りかえしがつかないし。第三には多美子やその他にもそれでは不義理なような気持のするむきがあるというのであった。そうしてお千代は世俗の夫婦のような幸福は今さら望みもしないのだから、谷崎老後の世話でもし、娘の成育をみてたのしみ、読書でもして慰みさえすればどうにかして世を送れるだろうというのであった。(せめての希望としては一日に一時間だけ谷崎と話をしたいとお千代が夫に申し出たのはこの時である。)
哀れにも女らしい。ぼくはお千代のそんなところをこそ愛しているのだ。それを聞けばお千代の言い分に無理があるとも思わないし、それならばそれでまた一つの美しい態度とも思い、自分はお千代を励まし、また自分を叱って、その晩大阪へとまり翌日早く東京へ帰る汽車に乗った。
車中でひとりお千代の言葉や谷崎の言葉などを思いかえしているうちに、ぼくは自分の微温的な愛情がお千代をかえって不幸にしていると考えたり、お千代のせっかくの心づくしを谷崎は迷惑がっている宿命的なお千代の運命や、そうかといって谷崎を責めてみてもしかたあるまいなどと思いわずらっているうちに、自分がはっきりと意志を定めてお千代を説き、それが三人にとって幸福な道であることを知らせさえすれば、お千代もその気になるだろうと思い当った。
自分としても今になってまた新しく見ず知らずの女を妻にしてみても満足に生活できるかどうかもおぼつかないし、そうすればそれでなくてさえも今や自信を失いつつある自分の文学的生涯もけっきょく失敗に終るだろう。―――飲んだくれて余生をすごしてもいいなどとそんなロマンチックな考えは捨てるがいい――こんな自問自答をつづけたのであった。そうして自分ひとりでは谷崎から受けた相談をどうしていいか、またわからなくなってしまったのである。そうして今までにも谷崎とお千代との間柄を心配しては、ときどきぼくのところへ訪ねてきたり手紙をよこしたりするお千代の兄の、前橋にいるのに一度会って、その人に相談しようと思いついた。
五
前橋の兄はぼくの手紙を見てさっそく上京してきてくれた。手紙には用事の内容は記してはいなかったが、ぼくは会ってなにもかもそっくりそのままぶちまけた。この兄は年四十で市井の一商人、別にたいして教育などある人ではないが、人の言葉をまともに受けいれて、すぐに理解する素質を持っている。話のわかる人である。谷崎とお千代との間柄をも、この二人の間に立っているぼくをもよく知っていてくれた。ぼくは自分の心持がまだ十分に決定しているわけでもないが、決定してお千代を説き動かしてみるとしても、お千代の身内の人たちに不服がないかどうかを確めた。
兄は、ぼくの心まかせにして差支えないといって帰った。翌朝早くこの兄はふたたびぼくの家を訪うて、
「昨日は単に不服はないという消極的な態度であったけれども、一晩よく考えてみて、今朝はもっと積極的にどうかそういうふうにお心持を決定してもらいたいと思ってここへきたのです」
ということであった。
前橋へ手紙を書いたと同時に、ぼくはお千代に宛てて谷崎といっしょに読むようにと封套に断わり書をした。手紙を書いたことは十年前に二三回あったほかには、その後はじめてである。お千代はぼくの手紙に返事をよこした。大部分は谷崎の伝言をしたためたものであった。とにかくもう一度すぐ下阪するようにと書かれてあった。この返事はちょうど前橋の兄が来合わしている時に着いたので、ぼくはこの返事をも兄にみせた。そうしてその場で相談をきめて、ぼくはもう一度下阪することにし、お千代の兄もほかに用件もあり月の二十日ごろには谷崎の家で落ち合う約束をした。 これは七月の十三日の朝であったと思う。そうしてその翌朝、ぼくはふたたび谷崎の家へ出かけた。
谷崎の話によると、ぼくがいったん東京へ帰ってからお千代に宛てて書いた手紙はかなりお千代を動かしたらしいというのであった。谷崎はぼくの希望にしたがってお千代をその場に呼んでぼくの心持をお千代に話させた。ぼくが考えておいてくれというに対して、お千代はよく考えてみると答えた。そうしてぼくはその翌日、紀州へ帰省した。父母の膝下に一週間いて、その間にお千代の話を父母にもしてみようかと思わないではなかったが、お千代の答もわからないうちに父母に相談するのもどうかと思い、それに「お千代が承諾した場合には、誤解がないように自分から君の両親に話したい。」という谷崎の言葉もあったので、ぼくは父母にはこの時にはなにも言わなかった。
二十日の晩に谷崎の家へきてみると、お千代の前橋の兄はその日の朝きて、そこにいた。
兄はお千代とも相談し、また谷崎の意向をもよく確めた。そうしてお千代は万事を谷崎と兄とぼくとに任せるということに決心したのは二十三日であったかと思う。
お千代の養母は八十三になる。高齢だけれどもしっかりした頭をもっている。この人は兄から経過の報告的相談をうけると、十分か十五分かの後にぼくを呼んで、いっさいを快く承認してくれた。谷崎の弟や妹などお千代と別れを惜しんで涙をながしたが、ぼくに対して不快な顔をした人はひとりもない。谷崎とお千代との間の娘の鮎子は、父からことを聞かされて悲痛な顔をしたがうなずいた。そうして改めてぼくに親愛を示そうと努めてくれた。ぼくは幸福を感じ、すべての人々がぼくを遇するに過分なのを感謝した。前橋の兄はぼくと床を並べて眠っていたが、夜ふけまで寝物語して、果ては誰にともなく感謝の涙を流した。彼は谷崎という人を今日にしてもっともよく知ったと言って感心した。
ぼくの父母にはお千代の心持が決定すると、谷崎からもぼくからも手紙を出した。八月の四日に、谷崎とぼくとお千代と三人で紀州へ海を渡った。ぼくの決めたことについてはぜひにかかわらず、ぼくに責任を負わせて叱らない父母は、このことについても、承知してくれることは最初から知っていたが、ただ承知したというよりむしろ喜んでくれたのはまことにありがたかった。谷崎はお千代を自分の妹として、ぼくの妻にもらってくれと、ぼくの父母に話したのだそうである。ぼくの郷里の家族の生活ぶりは谷崎にもたいへん気に入ったらしく、お千代は冗談にここの家でもっとも悪いのは長男だけだといった。―――長男とはぼくのことなのだ。
谷崎はしごとが多忙なので、紀州では一泊して帰った。ぼくとお千代とは谷崎の帰った後でさらに二泊した。
ここではじめてぼくらの結婚は父の家において名実をそなえたのである。
私たちはさまざまな世評を受けている。しかしみずから仔細に反省してみて、一点の疚[やま]しさを感じてはいない。そうして疑いぶかい目でみて、とかくの評を下したり、道徳家面をして人間の生活を知らない偽善者などが案外まだ世の中にいることを知ると、自分たちの周囲がみな老若にかかわらず人間の高い情操を掬[きく]することのできる人々であるのを知ってさらに感謝の念を深めた。また、 この無理解な世間と温かい周囲とに対して、それぞれいずれに対しても、われわれの責任がますます重大なことをぼくとお千代は自覚した。
このすべてに酬ゆる唯一の方法としては、ただこのノトーリアスな夫婦がますます円満であるよりほかに方法のないことを知るばかりである。それにしても世人のことごとくが、谷崎なりお千代なり、あるいはぼくなりのせめてそのひとりをよく知っていてくれたら、きっと周囲の人々と同様にこの告白を文字通りに読んでくれるだろうと信じている。
ちょうどこの文章を書いている最中に谷崎から手紙があり、それには次のような文句がある。無断だけれども引用しても差支えあるまい。
……………ぼくの方へも見舞客頻々[ひんぴん]、関西の人は個人的に知っているのが多いので、公平にみてくれるが、東京その他遠方よりの慰問状には無理解なる同情者がたくさんいて困っている。そうなるとお千代が可哀そうにて、ぼくも感傷的になり、電報を打った。しかし今は安心している。
近々、ぼく一人の名義にて、君らが正解されるようにさらに第二の声明をなそうかと思っている。君がこちらへ帰ってきてからよく相談をした上にするが、なによりも不当な同情をされることがはなはだ不愉快なり。(以下略)
合理的と思うことでも習俗と同じでないことをするには、そのことだけで世俗をおこらせるものだ。谷崎の友情はうれしいが、別に声明にも及ぶまいという気がしている。ただあまりいじめられては気が弱いお千代は、かねて覚悟はしていてもそのためにいじけてしまいはしないかと、これが今のところぼくに一番の関心事である。
多美子からも、今度こそはうまく生活してくれ、お千代さんとならばうまく行くだろうと人伝てに言ってくれたのは、これまたありがたいと思わねばならない。その返しというわけではないが、 ぼくも多美子の幸福を祈り、縁あってぼくをあれほど慕った美代子が無事に早く成人して再会する日の一日も早くくることを、切に、切に願う。涙を催して筆を擱[お]いた。