「料理と灰汁[あく] ー 小泉武夫」灰と日本人 中公文庫 から
アクの正体
明治中期から大正にかけて活躍したジャーナリスト兼小説家、村井弦斎は、その著「食道楽」で一躍世に知られた人物であります。弦斎はこの「食道楽」の付録として末尾に載せられている「料理心得のうた」の中に、
早蕨[さわらび]は火鉢の灰でアクを出し、鰺の煮汁で煮るが味好き
とうたっています。蕨は他の山菜同様、大変にアクの強いものであるから、アク出しをする必要がありその心得を歌ったものです。さて料理ではこのように「アクを出す」、「アクを取る」、「アクを抜く」、「アクを去る」、「アクをすくう」、「アクをはらう」、「アクをすてる」など多くの表現が用いられていることでもわかりますように、アクの除去は調理の重要な一手法なのであります。ところでこのアクの定義とは一体何でありましょうか。実は今のところ完全な説明は与えられていないために、その多くは漠然とした表現のものが多くなっています。数多い料理の本から一応の定義のようなものをまとめてみますと「味覚に対して不快な作用を与える成分又は物質」というようなものとなるのかも知れません。 アクには植物由来のものと動物質のものとがあり、それぞれにその内容成分は異なりますが、一般的にいわれている構成成分は植物由来の場合、無機塩、有機塩、配糖体、サポニン、タンニン、有機酸、ボリフェノール化合物、テルペンなど、また動物質では脂質、蛋白質、ベブチド、複合蛋白質(脂肪やリンなどと結合した蛋白質)など多種の成分群にわたっています。実際、肉や魚、野菜を単独または混ぜ合わせて煮る時、鍋の表面に浮かび上ってくるアクをすくいとり分析致しますと、大体このような成分が検出されますし、またその煮汁や煮物にもそれらの成分が存在しているのです。
ところでアクは味覚に不快な味を与えるものですが、官能的(実際に口に含んで味をみることです)にはこれを「えぐ味」、「苦味」、「渋味」と分けて区別しています。「えぐ味」 は、金属的な重みの、くどくにぶい不快味を舌に与えるもので、その主成分はホモゲンチジン酸およびそのカルシュウム塩とされ、これに権酸塩類(カルシュウム、カリウム、ナトリウムなどとの塩)が共存していたり、ホモゲンチジン酸が糖などと結合していた場合にはいっそう強く「えぐ味」を感じるといわれています。 この「えぐ味」の最も代表的な例は、筍、蕨、薇[ぜんまい]、独舌[うど]、牛蒡[こぼう]などの山菜を水に漬けたり、ゆでたりしたとき強く出るものであります。「苦味」は配糖体(糖がアルコールやフエノールなどと縮合して生じる化合物をいいます)又はアルカロイド(植物体から得られる、特殊な薬理作用を有する塩基性窒素化合物をいいます)や、カルシュウム塩、マグネシュウム塩のような金属塩類、さらにサポニン、タンニン、ヘスペリジンなどのようなポリフェノール類などに起因します。
特に配糖体の苦味ではリモノイドおよびフラバノン配糖体が有名で、グレープフルーツや夏みかんにその苦味の例をみます。最近アミノ酸の集合物であるペプチドから、苦味を持つペプチドが分離されましたが、これはチーズの苦味の研究に端を発した成果であります。「渋味」は主としてタンニン類で、例えばポリフェノール成分から成る柿の渋味や、 カテキンを中心とする茶の渋味などがその代表例です。また魚の干物などに感じる渋味は不飽和脂肪酸の酸化分解物とされています。
アク抜き
村井弦斎の「料理心得のうた」をもう一句。
竹の子の皮をば先に剝き取るな、糠諸共にゆでるこそ好き
筍を風味よくゆでるには、たっぷりの米とぎ汁の中で皮つきのままゆでるか、又は水に米糠を入れたものでゆでた後に皮を剥ぐとアクがきれいに抜けるという教えであります。 皮ごと筍をゆでる理由は、皮の中の筍は温度が一定に高まり、早く繊維がやわらかくなるために水溶性のアクの成分が容易に解けて溶出すること、また糠を入れる理由は、糠に含まれている高分子の蛋白質やコロイド状の物質がアクと結合して、さらに高分子の不溶性物質となり抜き出すことができるなどの理由によるとされています。
さてアク抜きの方法にはいろいろありますが、最も一般的なものは灰汁(草木灰を水で溶いた上澄液又はその濾過液)を用いる方法であります。灰汁はアルカリ性でありますから、アクをもつ材料をこの液に漬けたり、これで煮たりしますと、繊維がやわらかく膨潤し、水溶性のアク成分は容易に外に溶け出すもので、この点はすでに述べました和紙の場合の灰の効用と同じであります。したがってあまり長く作用させると、組織が崩れすぎてむしろ味をそこないますから注意を要します。また灰汁でアク抜きすると、緑色の植物はいっそう鮮やかな緑色に冴えさせることができます。これは緑色の成分であるクロロフィ (葉緑素)が灰汁の持つアルカリ性の作用のために、より鮮やかな緑の色素であるクロロフィリンに変化するために起こるもので、ここに灰汁を用いたアク抜きのもう一つの効用がみられるのであります。最もアクの強い植物といわれるのは山菜の中の蕨であります。蕨はおひたしや天婦羅、煮ものなどいろいろな方法で食されていますが、アクを抜かぬものはえぐい味のほかに硬く、その上苦味が強いためにどうしてもアク抜きが必要となります。上手なアク抜き法を述べておきましょう。
まず木や木の葉の灰をつくり、これを水に溶いて上澄液(灰汁)をつくります。この灰汁を一〇~二〇倍の熱湯でうすめ、これを鍋に半量ほど入れた後、蕨が灰汁にちょうど浸るほど入れて数時間から一夜放置するとほぼアクを抜くことができます。これでも蕨は硬めのものであったなら、重石をのせるか、そのまま灰汁中で軽くゆでます。ちょうど食べごろのやわらかさになったら、灰汁から引き上げて水洗いしますが、ここでは丁寧に手早く洗うのが大切で、洗った後何時間も水に浸けておくと、たちまち味と色が低下します。ですから水洗い後はすぐに料理に使うことがうまく食する秘訣であります。
鰊や鱈の干物を煮る時、灰汁や米のとぎ汁に漬けたり、これで煮たりしますが、これは干魚をつくる時、乾燥に時間をかける上に市場に出てからも長期間空気中にさらされていますので、この間に魚の脂肪が酸化されて遊離脂肪酸が増加し、干物特有の渋味が出ていますから、これを灰汁で処理することによりそのアルカリ性、主として炭酸カリウムと炭酸ナトリウムがこの脂肪酸を中和するために渋味を抜くことができるのであります。
なお米のとぎ汁の使用は糠の効用と同じで、その中に含まれている高分子コロイド物質が干魚のアクを包括して不溶性高分子化合物に変え、とり除くことができるためです。
西洋料理でもアク抜きは料理の重要なポイントの一つであります。とりわけブイヤベース、クラムチャウダー、シチュー、ガンボーなどの煮物や鍋物では、しつこいほどにアクをすくいとるのが料理をうまくするコツの一つです。中でも混むことを一つの誇りとするコンソメスープ、例えば「コンソメ・ドゥーブル」、「コンソメ・リッシュ」、「コンソメ・ ロワイアル」、「コンソメ・アンジュレ」などでは、牛の艦や脹壓部の肉をきざみ、これにパセリ、玉葱、セロリ、人参、月桂樹の葉のほか多くの野菜と香辛料を数時間煮込んでブイヨンをつくりますが、その最中に相当のアクが出て浮遊いたします。このアクには大きなものから微粒なものまで、さまざまの形で混入しておりますから、いちいちすくいとるのは容易なことではありません。