「無慈悲な自然から思想が生れた ー 堀田善衛」岩波新書インドで考えたこと から
私がインドにいたのは、十一月末から一月末までの、いちばんすごしやすい季節だけだ。いちばんすごしやすい――それはそうにちがいないのだろうが、それでもやはり、気候温和な日本島で育った私をもっとも悩ましたものは、気候、はっきり云って温度であった。
デリーでは、日向ではやや暑いということばがあたると思われるあたたかさであったが、一旦、日影、あるいは部厚い壁の屋内に入ると、ひんやりして来、一時間も日影か屋内にいると、 私はぞくぞく寒気がしてくるのを覚える。いくらか誇張して云えば、腰から上に日があたり、 腰から下が影になっているとき、胸や腹、顔はあたたかく、足腰がさなく冷えて来る。そして夕方から、夜にかけて外出しなければならないときには、午後晩く、いそいで宿舎に帰ってズボン下とスウォーターを着る。二月の末頃から、次第に暑くなって来て、四月頃になると怖ろしい暑気が、近くのラージャスタン砂漠からの熱風とともに襲って来るのだそうだが、それがどんなに怖ろしい暑さなのか、私には想像出来なかった。ただ、話を聞いていて、私はT・S・ エリオットの『荒地」という詩の冒頭にある「四月はもっとも残酷な月…………」という詩句を連想するというバカげたことしか出来なかった。
◎
インドは三角形の地形の、その両の腋のところに、東西を睨む二つの眼をもっている。東海岸のカルカッタが、極東と東南アジア世界にむかってひらかれた眼、あるいは窓であるとするなら、西海岸のボンベイは、その眼を西アジア、中近東、アフリカ世界から西吹にむけて見ひらいている。このボンベイという、少くとも第一次大戦前後風な様式、あるいはヴィクトリア女王時代のような現代風な建物をもってマダガスカル島まで陸地のない、アラビア海に向った都市では、冬とはいえ夜昼扇風機をまわさずにはいられなかった。扇風機をまわして、アラビア海に沈んで行く慮無的なまでに美しい夕日を眺めていて、おかげで私は風邪をひき発熱した。
デッカン高原のオーランガバード、ナーグブル、ハイデラバードなどは、ひどく乾燥し切っているので、じめじめした暑さではないが、とにかく日光は強烈で、黒眼鏡なしでは日中三十分以上外にいることが出来なかった。デッカン高原は、東西に注ぐガンジス、インダスの両河流域を除くとすれば、ほぼ三角形をなすインドの三分の一・五くらいを占めるかと思われる広大な地域であるが、これは地質学的には地球上もっとも古い陸地の一つであるといわれている。 それがもっとも古いということは、事実としても、また象徴としても、人の心をうつ。
輪廻の車のように燃えている太陽から直かに、燃えたったままの、真白な光線が太い束をなして大地に襲いかかって来る。その怖ろしい、そして鋭い光線が、永遠ほどの時間をかけてこの大高原の紫色乃至茶褐色の岩を突き崩し、突起部を撲りつけている。乾期には、一切のしめり気は吸いとられ、陽炎もあがりはしない。素人の私にはわからないが、この次の段階は砂漠であろうか。山は頂上の平べったいテーブル・マウンテンになるか、円錐状の岩と化するほかには法もなく、細い砂状の土は風に吹きとばされ、畑の土層は極めて薄くて、茶褐色か、でなければ灰紫色の岩が遠慮会釈なしにとび出している。残酷な土地である。それでも、人間はこの薄い土層を耕して生きて行かねばならないのだ。
自然が、どんなにまで苛酷でありうるか。それはもう、自然がほとんど人間となれあっている日本島では想像出来ない。この自然に、人間が自らの持つもので対抗するとなれば、それは宗教を含めた意味での思想、それ以外にある筈がない。そのことが一瞥で、感動的にわからされてしまう。
太陽は、敵だ。このあたりではものを育てる母なる太陽ではなくて、一切の生き物を灼き枯らす凶悪な敵ではないか、と思われる。青一点張りの、うとましくなるほどに書い穹窿のどまんなかで、太陽は千本もの手をふりまわして、勝手放題、人間の都合、総じて生きものの方の都合など考えてもくれず、たったひとりで躍り狂っている。千手観音というのは、こいつから発想されたんだろう、と云って、私はその無智を笑われたが、そう思いたくなるようなものである。
けれども、対照の激しさはここにもある。この強烈な昼の時とひきかえて、夜は、 極暑のときのことは私は知らないのだが、急激に温度が落ちて、これもまた私にとって悩みの種だったのだが、冷えびえとして来て、しかも白昼の空の青が暗い夜の穹窿の奥に、深い海のような青さで、青々と、いつまででも残っていて、そこに純粋な色の月がのぼって来ると、いかなる不信仰の者も何かを拝したくなって来る。昼間は打ちのめされて、夜は同じ天空に救われて、これが水遠に持続するのである。
かくて、インドからもっと西方の、砂漠に生れた『千夜一夜物語』や『ルパイヤット』などの詩人たちが、絶世の美女を月光にたとえた理由がしみじみと納得させられる。月は、ひたすらに美しくて、しかも無害なのだ。ついでにいえば、タージ・マハルその他の、惜しみなく大理石をつかった、特にイスラム系の建物は、すべてその方位を月光によって決定し、月光にまる青白い反映を勘定に入れてあり、美は月光と大理石と水と花の色を基礎とするもののようである。従ってそれは幾何学的である。苛酷な自然の只中の、幾何学的な、冷っとする王者たちの抒情である。一種の極限の美。広大なイスラム世界をうかがわせるに足るものを、北インドは豊かにもっている。
ところでデッカン高原にもういちど戻ることにして―――日中、牛車とともに菩提樹の葉蔭に憩って、黒眼鏡をかけていてもなおかつ眼を刺すような赤紫の花、一年中咲いているというブーゲンヴィリアその他の花々をなるべく見ないようにし、そして、このいちばん涼しいと云われている季節に、汗をふきふきのろのろと道路工事のような重労働に従っている婦人労働者の群れを私は眺めていた。彼女ら下層カーストの婦人たちは、云うにことばがなくなるほどに惨めである。赤青などのドギツイ色の、そして汚れ果てたサリを着て、頭の上にのせたザルに煉瓦や砂利などを入れて、のろのろと重労働に従っている。これで収入が一日約五十円、いったいどうやって生きて行くのか。婦人や子供の労働を制限するところまで、まだこの国は行っていないのであろう。この婦人たちが、インドの未来そのものである子供を生むのだ。見ていると、涙も涸れてしまう。眺めながら、デッカン高原の一部を、いっしょに歩いてくれた友人に、 あたりの風景について、相手に通じるであろうと思われる国際的な、すなわち通俗的な規準を求めて話しかける。
「このあたりの風景は、山はどれも頂上が平べったくて、いわゆるテーブル・マウンテンというやつばかりで、ゆるやかな傾斜の平地といえば、ほとんどが、日本の土地と比べれば半砕、漢だが、この光景は、なにやらどこかで見たことがあるように思われる。そうだ、これは、アメリカの西部活劇映画などに見る、アメリカ西部の半砂漠地帯とよく似ているように思われる」
「そうかもしれない。しかしわれわれの政府は、アメリカの西部活劇映画のような、安っぽい、そして理由なくインディアンがインディアンであるが故に白人から殺戮されるようなものを好まないから、私は多くを見ていない。だから私はあなたの云うところを正確に理解しているかどうかわからないが…」
「なるほど・・・・・。とにかく映画の話なのだ。私はアメリカへ行ったことはない」
「行ったことがなくても、あなたは映画を見ている。そういえば、あるアメリカ人が、アジキンタの洞窟寺のある、あの河沿いの断崖を、グランド・キャニオンに似ていると云っていた」
下らない対話だ。総じて旅行者というものは、この程度の話しか出来ないものらしい。ほかにはなんにも話すことがないのだ。たとえあっても、一方はまったくなじみのない自然と人間の景観に圧倒され、他方は相手がどの程度に圧倒、あるいは評価、あるいは嘲笑しているかが測定出来ない。二晚や三晩、いっしょにとまりあるいたとしても、所詮同じことだ。二晚、三晩をともにすごして、ある種の友情が生じたとしても、白昼のデッカン高原の苛酷な風景は、 その程度の友情など、頭から打ち消してしまうほどの迫力をもっている。半砂漠の飢え渇いた土地にこぼれた一碗の水のように、たちまち吸い込まれてしまう。あとは、けろりとした、赤紫色の、粒のあらい土だけ・・・・・・。話すことがないとならば、荒涼たる自然に圧倒された人は、 自分の人間であること、精神であることを確保し確認するために、しきりと無言の独白にふけり、従って独断と誤りにみちみちた、考えと称せられるものを次第にうちたてて行く。オシャカ様その他の古代インドの思想家たちの冥想もまた、こんな風にして行われたのであろうと類推することは、果して不遜であろうか。裸の、人間の手の及ばない自然は、人間の思考経過とでもいうべきものまでムキ出しにし、マル裸にする。
私がインドにいたのは、十一月末から一月末までの、いちばんすごしやすい季節だけだ。いちばんすごしやすい――それはそうにちがいないのだろうが、それでもやはり、気候温和な日本島で育った私をもっとも悩ましたものは、気候、はっきり云って温度であった。
デリーでは、日向ではやや暑いということばがあたると思われるあたたかさであったが、一旦、日影、あるいは部厚い壁の屋内に入ると、ひんやりして来、一時間も日影か屋内にいると、 私はぞくぞく寒気がしてくるのを覚える。いくらか誇張して云えば、腰から上に日があたり、 腰から下が影になっているとき、胸や腹、顔はあたたかく、足腰がさなく冷えて来る。そして夕方から、夜にかけて外出しなければならないときには、午後晩く、いそいで宿舎に帰ってズボン下とスウォーターを着る。二月の末頃から、次第に暑くなって来て、四月頃になると怖ろしい暑気が、近くのラージャスタン砂漠からの熱風とともに襲って来るのだそうだが、それがどんなに怖ろしい暑さなのか、私には想像出来なかった。ただ、話を聞いていて、私はT・S・ エリオットの『荒地」という詩の冒頭にある「四月はもっとも残酷な月…………」という詩句を連想するというバカげたことしか出来なかった。
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インドは三角形の地形の、その両の腋のところに、東西を睨む二つの眼をもっている。東海岸のカルカッタが、極東と東南アジア世界にむかってひらかれた眼、あるいは窓であるとするなら、西海岸のボンベイは、その眼を西アジア、中近東、アフリカ世界から西吹にむけて見ひらいている。このボンベイという、少くとも第一次大戦前後風な様式、あるいはヴィクトリア女王時代のような現代風な建物をもってマダガスカル島まで陸地のない、アラビア海に向った都市では、冬とはいえ夜昼扇風機をまわさずにはいられなかった。扇風機をまわして、アラビア海に沈んで行く慮無的なまでに美しい夕日を眺めていて、おかげで私は風邪をひき発熱した。
デッカン高原のオーランガバード、ナーグブル、ハイデラバードなどは、ひどく乾燥し切っているので、じめじめした暑さではないが、とにかく日光は強烈で、黒眼鏡なしでは日中三十分以上外にいることが出来なかった。デッカン高原は、東西に注ぐガンジス、インダスの両河流域を除くとすれば、ほぼ三角形をなすインドの三分の一・五くらいを占めるかと思われる広大な地域であるが、これは地質学的には地球上もっとも古い陸地の一つであるといわれている。 それがもっとも古いということは、事実としても、また象徴としても、人の心をうつ。
輪廻の車のように燃えている太陽から直かに、燃えたったままの、真白な光線が太い束をなして大地に襲いかかって来る。その怖ろしい、そして鋭い光線が、永遠ほどの時間をかけてこの大高原の紫色乃至茶褐色の岩を突き崩し、突起部を撲りつけている。乾期には、一切のしめり気は吸いとられ、陽炎もあがりはしない。素人の私にはわからないが、この次の段階は砂漠であろうか。山は頂上の平べったいテーブル・マウンテンになるか、円錐状の岩と化するほかには法もなく、細い砂状の土は風に吹きとばされ、畑の土層は極めて薄くて、茶褐色か、でなければ灰紫色の岩が遠慮会釈なしにとび出している。残酷な土地である。それでも、人間はこの薄い土層を耕して生きて行かねばならないのだ。
自然が、どんなにまで苛酷でありうるか。それはもう、自然がほとんど人間となれあっている日本島では想像出来ない。この自然に、人間が自らの持つもので対抗するとなれば、それは宗教を含めた意味での思想、それ以外にある筈がない。そのことが一瞥で、感動的にわからされてしまう。
太陽は、敵だ。このあたりではものを育てる母なる太陽ではなくて、一切の生き物を灼き枯らす凶悪な敵ではないか、と思われる。青一点張りの、うとましくなるほどに書い穹窿のどまんなかで、太陽は千本もの手をふりまわして、勝手放題、人間の都合、総じて生きものの方の都合など考えてもくれず、たったひとりで躍り狂っている。千手観音というのは、こいつから発想されたんだろう、と云って、私はその無智を笑われたが、そう思いたくなるようなものである。
けれども、対照の激しさはここにもある。この強烈な昼の時とひきかえて、夜は、 極暑のときのことは私は知らないのだが、急激に温度が落ちて、これもまた私にとって悩みの種だったのだが、冷えびえとして来て、しかも白昼の空の青が暗い夜の穹窿の奥に、深い海のような青さで、青々と、いつまででも残っていて、そこに純粋な色の月がのぼって来ると、いかなる不信仰の者も何かを拝したくなって来る。昼間は打ちのめされて、夜は同じ天空に救われて、これが水遠に持続するのである。
かくて、インドからもっと西方の、砂漠に生れた『千夜一夜物語』や『ルパイヤット』などの詩人たちが、絶世の美女を月光にたとえた理由がしみじみと納得させられる。月は、ひたすらに美しくて、しかも無害なのだ。ついでにいえば、タージ・マハルその他の、惜しみなく大理石をつかった、特にイスラム系の建物は、すべてその方位を月光によって決定し、月光にまる青白い反映を勘定に入れてあり、美は月光と大理石と水と花の色を基礎とするもののようである。従ってそれは幾何学的である。苛酷な自然の只中の、幾何学的な、冷っとする王者たちの抒情である。一種の極限の美。広大なイスラム世界をうかがわせるに足るものを、北インドは豊かにもっている。
ところでデッカン高原にもういちど戻ることにして―――日中、牛車とともに菩提樹の葉蔭に憩って、黒眼鏡をかけていてもなおかつ眼を刺すような赤紫の花、一年中咲いているというブーゲンヴィリアその他の花々をなるべく見ないようにし、そして、このいちばん涼しいと云われている季節に、汗をふきふきのろのろと道路工事のような重労働に従っている婦人労働者の群れを私は眺めていた。彼女ら下層カーストの婦人たちは、云うにことばがなくなるほどに惨めである。赤青などのドギツイ色の、そして汚れ果てたサリを着て、頭の上にのせたザルに煉瓦や砂利などを入れて、のろのろと重労働に従っている。これで収入が一日約五十円、いったいどうやって生きて行くのか。婦人や子供の労働を制限するところまで、まだこの国は行っていないのであろう。この婦人たちが、インドの未来そのものである子供を生むのだ。見ていると、涙も涸れてしまう。眺めながら、デッカン高原の一部を、いっしょに歩いてくれた友人に、 あたりの風景について、相手に通じるであろうと思われる国際的な、すなわち通俗的な規準を求めて話しかける。
「このあたりの風景は、山はどれも頂上が平べったくて、いわゆるテーブル・マウンテンというやつばかりで、ゆるやかな傾斜の平地といえば、ほとんどが、日本の土地と比べれば半砕、漢だが、この光景は、なにやらどこかで見たことがあるように思われる。そうだ、これは、アメリカの西部活劇映画などに見る、アメリカ西部の半砂漠地帯とよく似ているように思われる」
「そうかもしれない。しかしわれわれの政府は、アメリカの西部活劇映画のような、安っぽい、そして理由なくインディアンがインディアンであるが故に白人から殺戮されるようなものを好まないから、私は多くを見ていない。だから私はあなたの云うところを正確に理解しているかどうかわからないが…」
「なるほど・・・・・。とにかく映画の話なのだ。私はアメリカへ行ったことはない」
「行ったことがなくても、あなたは映画を見ている。そういえば、あるアメリカ人が、アジキンタの洞窟寺のある、あの河沿いの断崖を、グランド・キャニオンに似ていると云っていた」
下らない対話だ。総じて旅行者というものは、この程度の話しか出来ないものらしい。ほかにはなんにも話すことがないのだ。たとえあっても、一方はまったくなじみのない自然と人間の景観に圧倒され、他方は相手がどの程度に圧倒、あるいは評価、あるいは嘲笑しているかが測定出来ない。二晚三晩、いっしょにとまりあるいたとしても、所詮同じことだ。二晚、三晩をともにすごして、ある種の友情が生じたとしても、白昼のデッカン高原の苛酷な風景は、 その程度の友情など、頭から打ち消してしまうほどの迫力をもっている。半砂漠の飢え渇いた土地にこぼれた一碗の水のように、たちまち吸い込まれてしまう。あとは、けろりとした、赤紫色の、粒のあらい土だけ・・・・・・。話すことがないとならば、荒涼たる自然に圧倒された人は、 自分の人間であること、精神であることを確保し確認するために、しきりと無言の独白にふけり、従って独断と誤りにみちみちた、考えと称せられるものを次第にうちたてて行く。オシャカ様その他の古代インドの思想家たちの冥想もまた、こんな風にして行われたのであろうと類推することは、果して不遜であろうか。裸の、人間の手の及ばない自然は、人間の思考経過とでもいうべきものまでムキ出しにし、マル裸にする。