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「江漢西遊日記(司馬江漢) ー ドナルド・キーン(金関寿夫ー訳)」講談社学術文庫 百代の過客ー日記にみる日本人 から

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「江漢西遊日記(司馬江漢) ー ドナルド・キーン(金関寿夫ー訳)」講談社学術文庫百代の過客ー日記にみる日本人 から

出島を訪れた者の中で、最も興味を唆る人物は誰かといえば、画家、思想家、その上大変な奇人でもあった司馬江漢にとどめを刺す。彼は「江漢西遊日記」に、己が試みた長崎への旅のことを描いているが、これは江漢のユニークな個性と、彼が体験を述べる際の徹底的な率直さによって、まれに見るほど興味深い作品となっている。江漢の日記を読む時、私たちは一種の衝撃を受ける。それは近世のいわば平面的な日記を多く読んできたあとで、一人の立体的な人物に、急に対面させられた時の衝撃にほかならない。彼は旅を描いて、単に絵巻物の中の一人物としてではなく、本当の人間の持つ、もっと複雑で矛盾に満ちた存在として、己自身の肖像を丸彫りで描き出し得ている。従って私たちは、彼にそれが出来たのも、彼が習得し、 また活用したヨーロッパ絵画の手法があずかって力あったのではなかったか、とつい推論したくなってくる。『とはずがたり』この方、これほどあからさまに己自身の姿を描いた日記作者は、誰一人として他にいなかったのである。 
江漢のユニークな人格を示すものとして、彼の日記中、多くの章句をあげることが出来よう。だが中でも最も驚くべき文章は、おそらく次の一節である。寛政元年(一七八九)二月三日、長崎より江戸への帰途、江漢は備中で鹿狩りに誘われる。彼はこう書いている。「鹿一疋池の辺二出後の山に入。時二鉄砲雨の如く、鹿鉄砲ニあたり藪の内に入ル。予[わ]レ走て鹿の耳元をツキ破り、生血を吸ヒければ、皆々肝をつぶす。鹿の生血は生を養フ良薬と聞ければなり」。そしてそのあと、彼は一行の者がうわさしているのを聞く。「あれは江戸の江漢と云フ者なり。鹿の耳元を裂て血を吸ヒけり。おそろしき者なり」。
江漢の行為は、あるいは読者をぞっとさせるかもしれない。だが読者は、その行為自体を忘れないだろうし、また作者江漠のことをも、忘れることは出来ないだろう。その上、彼のうわさをしている連中について、江漢はそれ以上なにも言っていないが、彼は、彼らと、彼らの因襲的な反応に対して、明らかに優越感を感じている。私は二十世紀以前の、いかなる文学作品の中にも、これに類似する一節を読んだことを思い起こせない。なるほど江漢の行為は、あるいは野蛮かもしれない。しかしそれはいかにも個性的で、不思議に近代的でもあるのだ。近世のもっと早い時期の日記作者が、同じような行動をすることは、想像もつかないのである。
彼の日記のページから現れてくる江漢は、根っからの外向性人物である。行くさきれきで、自作の銅版画と、のぞき眼鏡とを、人々の前に開陳している。そしていかに皆がそれらに感歎し、とても日本で作ったものとは思えぬ、などと言ったことを、決して書き洩らすことはない。彼はまた、なにほどかの教育のある日本人なら、大抵の人間が自分のことを知っているはずだ、と信じていた。「何方へ行きても、吾ガ名ヲ不知者鮮[すくな]し」と彼は書いている。ある時ある人に、江漢は、ビイドロ(ガラス)の上に描いた油絵を見せる。するとこの男が、「吾を信ずる事如神」だった、と書くのである。己自身に関してはばかることなく語る彼の性癖は、己の性生活の告白にまで及んでいる。遊女屋で過ごした幾夜かのことを、彼は平然と描くのである。共に寝た遊女の名前ばかりか、その値段まで記している。
生月島[いきつきしま]に着いた時、捕鯨に関する話を耳にし、非常な興味を示したため、鯨捕りたちは、 江漢に鯨舟に一緒に乗り込むように勧める。初めは「乗るまい」と思ったが、「サアサアとせり立テければ、飯に水をかけ一碗喰ヒ、夫[それ]なりに舟に乗ル。のるが早ヒ歟[か]、艪[ろ]を押が疾[はやい]か、誠に矢の如し」。鯨が見つかったのは、ようやく夜になってであった。

朝ヨリ一椀の飯のみにして、舟にもまれ、舟心地して気分あしし。然[しかれ]ども舟は大嶋の方へ方へと、八ちよう艪にして飛ブが如くかけ声ハ、アリヤアリヤアリヤ走ル。気分以外あしき故に、魚■[もり]に付キたる綱の内に伏す。凡[およそ]四里程も走りたる時、首を揚[あげ]見るに、鯨浪の中より躍出[おどりいで]、潮を吹き亦海底へ入。其廻[めぐり]に舟七八艘取巻く。主人亦之助鯨取したりくと云声に、気分ハキと快くなり、見物するに、■[もり]に柄あり綱ありて、舟ヲ鯨の背に乗付ルが如く、鯨を隔つ事僅に二間三げんなり。此鯨十七本■[もり]をうつ。故に十七艘舟を引く。次第によわりて、潮を不吹[ふかず]して気のみ吹く。

日記文学の中では、このように胸躍る文章に出くわすことは、めったにない。おそらく江漢ほどけたはずれに冒険を好む日記作者など、そうざらにはいないからであろう。

江漢はなぜ自分が日記をつけたかという理由を、どこにも言っていない。だがそれを上梓したいと思っていたことは確かである。長崎への旅を記録した日記の最初の版は、 彼が江戸へ戻った年の翌年、寛政二年(一七九〇)に出版され、以後何度か、時々題と挿画を改めた形で版を重ねている。そして最終版となった『江漢西遊日記」が完成したのは、ようやく文化十二年(一八一五)になってであった。この作品の結びとして、江漢は次のように書いている。「嚮[さきのひ]西游旅談として画を入レ、板本五冊世に行る。小子江漢今隠遁シテ世用なし。廿八年以前遊歴したる時、日々記たるを以テ■[ここ]に誌しぬ」。この旅は彼の人生でこの上なく重要な地位を占めていたと見え、多年を経た後も、彼は初めの記述を何度も書き改め、それをさらに完全、かつ詳細なものにしたのである。
日記の冒頭、江漢は宣言している。「是ヨリ肥州長崎ノ方、其外諸国を巡覧して三年を経ざれば帰るまじと思ひ立し」。だがなぜ長崎へ行くかという理由は、なにも言っていない。 道中至る所で、知人が、口をそろえてそのような長旅は思い留まれと言う。だがなにものも彼の決意を変えることは出来ない。大抵の学者は、江漢は長崎でオランダ画を学びたかったのであろうと言う。多分そうであろう。だが日記の中には、出島で会ったオランダ人にも。 オランダ画を学ぶ長崎在住の日本人絵師にも、彼がオランダ画の技法について訊ねた、という記述はどこにもないのである。なるほど荒木為之進 (元融[げんゆう])なる絵師に会ったことは言っている。だがこの人物について江漢が記していることは、ただの、二行にすぎない。すなわち、「之へ、画鑑定[ゑめきき]の役にて、先故[それゆえ]画もすこし描なり。一向の下手」。
事実江漢は、他の人間から何事かを学んだことがあるなどとは、一言も言っていない。己自身と、己の才能に関しては、限りない自信を抱いていたのである。日記の中で、再三再四、いかに人が自分の画に感心したか、ということを記している。伊勢の近くの山田という所で、彼は江漢の名を一度も聞いたことがないという人物に会い、本気で驚いている。次はそれについての彼の記述である。

吾、東都の者二て司馬江漢と云つ者也。足下吾ガ名を不知やと云ハ、いかにも不知トなりと云。■二於て色々持たる画出し見せけり。其中に蘭法二てかきたる人物アリ、髭のチリチリとして活[いける]ガ如キ者アリ。之を見て忽ち其あいさつかはりて、先ヅ内宮へ参詣して、 我方にてお宿いたすべし、ゆるゆる滞留し玉へと云う。夫故に参詣して返りによりけるに、打ツて変たる馳走ぶりにて、酒よ肴ナよとて、其夜は■に泊りけるに、其夜蘭画ヲ望みけるに、なかなか蘭画ハ蠟油を以テ作ル故に、一朝二出来ず、彼が如きザツ画に非ズ。 故にのがれて、前の■家[ぢよろや]に行き見ンとて行けるに、お山(娼妓) 十二三人吾を中におき、ぐるりと取巻きたり。

遊女でさえ江漢の、いかにも偉物[えらぶつ]らしい風体には、恐れ入った、というわけである。 江漢の日記には、彼が現場でスケッチした挿画が入っている。最初の版のものは線画だけだが、『江漢西遊日記』では、陰影法その他、西洋画の手法を用いている。こうした挿画には、風景があり、江漢の弁当の残りを食べる子供、墓石、生月島の漁師の像などがある。江漢はまた、出島の通詞長吉雄幸作の肖像を描いたことも述べている。「幸作の像を草々たる墨画にして、はかま羽織にして坐し、手に蘭書を持チ、上にエンゲル(エンジェル)、ルーフを吹き居る図なり」。この画は今も残っている。画面上方に Yoshio Koosakという名が見え、そのすぐ下には、ふざけ回る二人のキューピッドが描かれている。一人はラッパを吹他は司馬江漢の名をローマ字で記したオランダの小牌を掲げている。この肖像画が、伝統的な日本画における最良のものと、オランダ画の技法とをめでたく結合させた作とは、どう見てもいいがたい。だがこの画は、少なくとも江漢の想像力が、いかに大胆に羽ばたいたかを示している。
江漢の長崎旅行における正念場が、出島にあるオランダ商館訪問であったことはいうまでもない。だが彼は、そこを訪れる許可を得るため、並々ならぬ苦労をさせられている。というのも、彼は土地の役人に、老中松平定信の隠密ではないかと疑われたからである。そこで彼は江戸の商人に身をやつし、それによってようやく許可証を得ることが出来たのである。 だが出島の門を入るところで、「ふところ袂を改」められる。密輸を恐れて、何物も持ち人ることを禁じていたのだ。
江漢はこの前年、「おらんだ外科ストッッルと云者」が将軍お膝元の江戸に来ていた時、 彼が泊まっていたオランダ宿で初めて会い、長崎での再会を約していた。江漢は書いている。

夫故吾を見ると先ヱ立チ、人の居ぬ牛部屋の方へ行ク。路々何ヤラ話スに一向に不通。只テイケネンテイケネンと云事のみ、是ハ江戸の丸の内、見付見付を図してもらゐたしと云フ事なり、夫よりしてミネール・コム・カーモルカーモルと云ヒけり。之は能[よ]く分りて通じけり。 ミネールとは貴公と云フ事、カーモルは部屋なり。コムコムは来々[きたれ]と云事なり、夫故に跡に付て行クに、二階へ土足二て登り、キタナキタタミをしきて、皆立て座す事なし。

江漢は、ためらわずにオランダ人のあとに随い、二階へ登ってゆく。外国人の前でも憶することのない江漢の態度に、他の日本人は感銘を受ける。「吾が蘭人と物談[ものがたり]ヲするを見て、 誠ニ肝をつぶし・・・・・・」と江漢は書いている。次になにか酒のようなものを勧められ、それを飲む。「何ヤラ濁[どぶ]ろくの様なる酒にて、すく(酸っぱく) 思ひければ■(すし・酢)々と申に、彼云には、薬々とて、玉子へ指シけれ。クスリクスリは日本の辞[ことば]なり」。このオランダ人も、日本語の片言を、どこかで聞き覚えていたのであろう。
次いで江漢は通詞の部屋へゆく。すると吉雄幸作他二名の通詞が、彼を「かぴたん(館長)」の部屋に案内する。ところがそこで「かぴたん」の召し使いを見て、彼は驚くのである、「此黒坊と云ハおらんだノ方の者にあらず、天竺の方おらんだの出張ヤハ嶋(ジャバ島)の者、或はアフリカ大洲の中[うち]モノ、モウタアパと云処の熱国の産れなり」、「かぴたん」 の部屋は大きさおよそ二十畳、江漢は、まず壁に掛かった額入りのガラス絵、その下に並べられた椅子、椅子に置いてある啖壺[たんつぼ]に目をつけている。そして「畳の上ニ毛せんの如キ花を織たる物をしき、天上(井)ノ中にビイドロにて作る瑠璃灯を釣り、向フに紅キ幕の下ゲたる書斎の如き処アリ。障子皆ビイドロヲ以テ張ル」。そこで「かぴたん」が、中から長いキセルを手に持ち、挨拶に出てくる。そして通詞を通して、「ナント、リッパにケッコーカ』 と、得意げに言う。江漢は皮肉をこめて書いている。「彼等日本をば物をかざらず、至で素なる国風と思ヒ、云フなるべし。夫[それ]よりこちらからも 、是へ目を驚かしたる事と返答す」。
ここで二人の「黒坊」の召し使いが、「銀の盆の上に、金を焼付したるコップとフラスコとのせ、傍ラに立ッ」。つづけて江漢は書いている。「其コップにて酒を呑ム。アネイス・ウヱインと云焼酒也。是はウイキヤウにて造ル酒なり。剛[つよい]酒故二吾にツキ来ル者へ与へけり」。
江漢はこの「かぴたん」に、以前江戸でも会ったことがあり、また江戸への帰路、もう一度会うことになっている。江漢の出島訪問の結果としては、格別特筆すべきことは何も起こっていない。だがオランダ人とでも親しくつき合ってゆける己の能力を確認して、もともと高い彼の自己評価が、ゆるぎないものになったことは確かである。出島気分いまだ抜けやらぬその翌日、彼は「牛の生肉ヲ喰フ」。そして「味ヒ鴨の如し」だったと言っている。
 江漢の随筆にも、彼の性格の面白い面が諸所に出ている。『源氏物語』の名訳者アーサー・ウェイリーは、一九二七年、江漢の「春波楼筆記[しゆんぱろうひつき]」についてこう書いている。「司馬江漢こそ、極東人であることが、世界的な意味では、とりもなおさず地方的であることだと感じた最初の日本人、また今自分の国が、人間文化と新発見との主流から遠く離れたところに存在し、過去何百年もそうであったことを知った最初の日本人だったのである」。
ウェイリーの、この判断に同意するかせぬかは別として、江漢の著作を読むものは、必ずやその新しさに打たれ、またそれらが、この並外れな人間を真に反映していることに、感銘を受けるにちがいない。

 

 

 

 

 

 


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