「俳句入門・目刺し篇 ー 東海林さだお」オッパイ入門 から
余は如何にして目刺しに目覚めたか
いま、自分の中で目刺しがブームである。
目刺しに目覚めたのだ。
人は年齢によっていろんなものに目覚める。
思春期には異性に目覚める。
老年期には目刺しに目覚める。
思春期の異性のほうは納得できるが、老年期の目刺しは納得しがたい、という人は多いと思う。
そこで、そのあたりの事情をわたくしは説明しなければならなくなった。
余は如何にして目刺しに目覚めたか。
そのことを、余はこれより縷々申しのべていく所存である。
なんだか急に偉そうになってしまったが、これは内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎」を不意に思い出してしまったからに他ならない。
なにしろ。不意。であるから余に何の罪もない。
でも、こうして余を使ってみると、なかなか使い心地がよいので、以下、自分のことを余でいくことにする。
そういえばナポレオンも余を使っていたような気もするが、つまり偉い人専用用語、という気もするが、使用にあたってどこかの認可が必要ということもないような気がするので、無料で使わせていただくことにする。
思春期に異性を求めるようになるのは生理である。
体の仕組み、すなわちホルモンの作用によってそういうことになる。
老年期に目刺しを求めるのも生理である。
食べ物で考えてみよう。
思春期において、若人はどういう食べ物を求めるか。
濃厚を求める。
トンカツ、ステーキ、焼き肉、ミックスフライ定食、ギトギトラーメン。
老年期の老人は何を求めるか。
湯豆腐、茶わん蒸し、蕎麦、素麺、お茶漬け。
濃厚から淡白へ。
食べ物に限らず、あらゆる趣向がそういう流れになっていく。
堅牢から脆弱へ。
難解から容易へ
読書から数独へ。
ジョギングからウォーキングへ。
テニスからゲートボールへ。
叶姉妹からきんさんぎんさんへ。
意気揚々から意気消沈へ。
青年は荒野を目指すが老年は目刺しを目指すようになっていくのだ。
こうした傾向は体の生理のみが起因しているわけではない。
経済的な事情もからんでいる。
月給から年金へ。
そのことは当然おかずにも影響してくる。
ステーキから鰯へ、鰯から鰯の開きへ、そして遂には開きから目刺しへ。
目刺しの社会的地位は極めて低い。
外食のメニューに目刺しはめったに登場しない。
清貧の殿堂、定食屋にも、絵の開き定食や鰯の丸干し定食はあるが、さすがに目刺し定食はない。
さすがに、などという言い方をすると目刺しは傷つくかもしれないが、ほんとにさすがにどこの定食屋にもないのだ。
そういう意味で、目刺しを清貧の巨匠と呼ぶ人もいる。
月給から年金へ、このことは老年期の人々の生活のあらゆる面に大きな影響を及ぼす。 当然趣味にも影響を与える。
金のかからない趣味を選ばざるをえなくなる。
老境期に入ると短歌や俳句を趣味にする人が多くなる。
「ほんとうは短歌をやりたいのだが、短歌は五七五七七で三十一字、俳句は五七五だから十七字。三十一と十七ではエンピツの減りがちがう」
と言って俳句を選ぶ人もいる(わけないナ)。
それは冗談にしても、老人は俳句を選ぶ人のほうが多い。
新聞や雑誌には必ずといっていいほど短歌俳句欄があって、NHKのテレビ、ラジオでもそういうコーナーがあり、どこの番組も隆盛である。
短歌もかつては老人に人気があったが、俵万智の出現以来若い人の投稿が多くなり、その内容も愛だとか色恋沙汰が多くなってきて老人は肩身の狭い思いをするようになってきている様子がうかがえる。
そういう背景から、若人は短歌を目指し、老人は俳句を目指すようになる。
短歌に比べると俳句はどちらかというと暗い、と言っては失礼だが、明るくない。
俳句で人生を謳歌しよう、元気になろう、歓喜を歌いあげよう、希望に満ちあふれよう、 と意図する人はあまりいない。
どちらかというとペシミズム。
諦観、悲哀、未練、無常といった、陰影を帯びたテーマの俳句が多い。
世の中のあらゆるものを二種類に大別するのを好む人がいる。
世の中の人はケチな人とケチでない人に大別できる、とか、飲み物は酒と酒でないものに大別できる、とか。
余もまた大別好きの人間であることをここで世の中に公表したい。
「俳句は『メソメソ俳句』と『ボチボチ俳句』に大別できる」
メソメソ俳句というのは、嘆き系の俳句を指す。
あとで実例を示すつもりだが、俳句には物事を嘆く、悲嘆する、しかも気弱に、控えめに、弱腰で、内気にメソメソと、というのがいかに多いことか。
ボチボチ俳句というのは、大阪の人が 「儲かりまっか」と訊かれて「ボチボチでんな」と応じるあのボチボチ。
人生ボチボチ俳句。
これも実に多い。
全俳句の半分は「人生ボチボチでんな」で占められていると言っても過言ではないような気がする。
俳句のテーマ(季語)には、しばしば食べ物が取りあげられる。
どういう食べ物が多いか。
多分これは先述の生理(この場合は入れ歯)と関係があると思うのだが軟かいものが多い。
どうしても湯豆腐、冷や奴、卵焼き、 ハンペン、大根(おでんの)、などの登場場面が多くなる。
ただし、軟かければいいというわけではなく、カニ、ウニ、イクラ、フォアグラなども十分に軟かいが、年金の関係で登場させにくいところがある。
俳句のテーマとしての食べ物で人気があるのは何か。
ということは、俳句人口の主軸となっている老境にある人たちに人気がある食べ物ということになる。
意外に思う人は多いかもしれないが目刺しの人気が高い。
様々な句集を読んでみると、目刺しをテーマにした俳句が多いことがわかる。
やはり目刺しは清貧の巨匠だったのである。
俳句好きの老境にある人たちは、目刺しのどういうところに目を付けたのだろうか。
あとでくわしく述べるが、目刺しの境遇に共感を覚えたのだ。
共生感、そして連帯感を覚えたのだ。
身につまされたのだ。
目刺しの境遇のどういうところに共感を覚えたのか、余はこのあと、その経緯を丹念にたどっていく予定である。
目刺しをよく見てみよう。
目刺しに不幸を感じない人がいるだろうか。
目刺しに痛々しさを感じない人がいるだろうか。
竹串で目を貫かれ、藁で荒々しく縛られ、体は干からび、痩せこけ、しなび、目は落ちくぼみ、虚空を見つめようにもその目はどこかに行っちゃっていて見ることもできない。
悲惨、惨状、痛哭。
「こうまでするか」
と思い、
「何かほかに方法はなかったのか」
と思う。
日本人は長い歴史の中で目刺しを見ているのでその惨状に気づかないが、これをもし英国の動物愛護団体の人たちが見たらどう思うだろう。
いまは鯨のほうで忙しく、日本の目刺しにまで目が行き届かないようだが、やがて鯨がヒマになり、さて次は、となったとき、目刺しはどうなるだろう。
とりあえず「解[ほど]け」というあたりから騒動は始まるにちがいない。
目刺しは四匹が一連になっているので、それを解放してやれ、ということになると思うが、今回は俳句の話なのでそっちに話を戻す。
俳界の人々はどういうふうに目刺しを詠んでいるか。
目刺噛む卒寿の歯並健やかに 朝妻力
これです、ボチボチ俳句というのは。
この方は、まさに人生をボチボチやっている。その様子がこの句からうかがえる。
ボチボチやっているのでご心配なく、 と言っている。
そのあたりの心情が「健やかに」に表れていると思う。
余はこの句を、日本を代表する目刺し句として推奨したい。
さびしさは告ぐることなし目刺焼く 芝生南天
こうなってくると余はつらい。
目刺しを焼いている姿を想像するだけでもつらいのに、自分で「さびしい」と言っている。
それを告げる人もいないのだ、と言っている。
明らかにメソメソ俳句である。
人生ボチボチでんな、などと呑気な雰囲気はこの句にはない。
細く長く生きても一人目刺焼く 長志げを
この句はむずかしい。
太く短く生きても一人目刺焼く
のほうがわかりやすいというか、解釈がしやすいところがあるが、「細く長く」がむずかしい。
特に「ても」の解釈がむずかしい。
細く長く生きた「のに」という意味ならばメソメソ系になるが、「ても」に自嘲が含まれているとすると肯定の部分もないわけではない、ということになり、そうなってくると 「人生ボチボチでんな」になる。
目刺焼くときの煙の行方かな 稲畑汀子
目刺焼くほほのあたりの目玉かな 迫口君代
思わず「ウーム」と唸ってしまう。
だからどうなんだ、と思ってしまう。
情景はとてもよくわかる。
目前を焼いていたら煙が出た、その標は右か左か、どっちかにたなびいたんでしょうね。
そしてその煙はやがて形を失くしていった、そのことを「かな」と言われても余は当惑せざるをえない。
後の句は、目刺しを焼いていて、ふと頭のほうに視線が行った人でしょうね、 そしたら頬のあたりに目玉があった、そりゃああるでしょう頭に目玉は。
その当り前のことを「かな」と表現するということは「ほほのあたりに目玉があるんだなあ」と詠嘆したことになるが、 あの目玉は詠嘆に価するようなしろものなのだろうか。
ここにおいて余は弱った。
ついさっき、余は世にあるすべてのものは二種類に大別できる、と大言壮語してしまった。
俳句はメソメソ系とポチポチ系に二大分別できる、と大口をたたいてしまった。
だが、ここにおいて、すなわち煙の句と目玉の句は、そのどちらにも属さないことが判明した。
俳句はたった二種類に分けることなどできるはずがないのだ。
俳句はそれほど奥が深い。
この一言で余の不明を許してやってほしい。
これで何だか急にラクになった。
ラクになったので、ここから先は肩の力を抜いて俳句を楽しむことにする。
春愁や黙して目刺頭から 保坂加津夫
妻の留守目刺の焦げし頭残す 渡邊友七
ここでは目刺しの頭が問題になっている。
前の旬は頭を食べているが後の句は残している。
目刺しの頭はもともと旨くないものである。
余はいつも残すことにしている。
その頭を「頭から」と強調しているわけだから、この人は頭が好きなんだな、と思うとこれが大間違い。
ここで「春愁」が効いてくる。「黙して」も効いてくる。
まずいものをわざと食べる心境。
目刺しの頭をわざと食べている作者の表情が思わず目に浮かぶ。
そういう意味ではなかなか奥の深い句ということができる。
頭を残した句のほうはどういうことになるか。
この句の眼目は「妻の留守」にある。
多分この人は恐妻家なのだと思う。
常日頃、目刺しの頭は必ず食べるように、と妻に強要されていたのだと思う。
それで嫌々食べていたのだと思う。
その日、妻は留守だった。
夫は、晴れて堂々と頭を残すことができた。
その喜びが、あふれんばかりにこの句に込められているのだ。
頭を残して思わずニッコリしている作者の表情が目に浮かぶ。
そういえば、
妻の留守ゆっくりと覚め目刺焼く 皆川盤水
という句もあった。
妻の留守と目刺しはどこかで密接な関係があるのかもしれない。
芥川龍之介も目刺しの句を一句詠んでいる。
凩や目刺に残る海のいろ 芥川龍之介
この旬はメソメソ旬かボチボチ句か。目刺しに海の色が残っている、というのはわかるが、なぜそこに木枯らしを持ってきたのか、目新しに対する嫌がらせか、ということも考えられるし・
・・
余はつくづく痛感した。
俳句は二種類だけではない、と。