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「富士山に賭けた時代 - 新田次郎」日本の名随筆10山 から

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「富士山に賭けた時代 - 新田次郎」日本の名随筆10山 から

 

青春というものがなにか熱っぽくて甘ったるいもののように回顧される人は幸福である。さりとて冷たいものでもなく、ごく平凡なものであり、言わば漫然として青春を逸してしまったようなものである。

気象台に就職した昭和七年の夏、富士山頂に出張を命ぜられた。当時富士山頂では富士山観測所が建設中で、その観測所に器械を取り付ける手伝いのための登山であった。

それまで富士山頂には私設の観測所があって、短期間滞在して気象観測をした例があったが、この年になって、いよいよ国の予算が成立して、年中無休の観測所が設立されることになったのである。私が頂上に着いたころは、観測所は大体でき上がっていて、あとは、いろいろの器械を備えつける仕事が残っていた。この夏、一ヵ月ほど富士山頂にいたのが私と富士山との縁の始まりとなった。まさか、この殺風景な山が私の青春の場になるとは思っていなかった。

富士山には秋はない。九月末になって、初雪があるともう誰も登って来る者はなかった。私が第一回目の雪中登山をしたのはこの年の十二月末であった。一度登れば少なくとも一ヵ月は滞在しなければなはなかった。交替員が来る日が遅れ勝ちとなって滞在日数が日延べとなると、観測所員たちはみんな不機嫌な顔になり、お互いに話もしなくなった。観測所員は独身者ばかりが四人、それに強力兼炊事夫が一人ついていた。冬は一ヵ月間、五人以外の顔は見ないで終わる場合が多かった。

現在のようにテレビはないし、ラジオはあったが、電源(当時は自家発電)を節約するためにニュース以外は聞かなかった。だから富士山頂にいる一ヵ月間というものは島流しにあったようなものだった。一年に三度か多い年には四度ぐらいは登った。こういう仙人のような生活の中で潤いとなるものは読書か、そうでなければ外に出て歩くことだった。冬の富士山は天気がよいが、非常に風が強く、毎日二十メートルほどの風が吹いていた。この強風の中を充分な装備をして、ピッケルを握って外へ出たものである。風に正対すると呼吸ができなくなったり、風を除[よ]けようとして、地面に伏せている自分の身体が強風のために動かされるようなことがあった。厳寒の富士山頂でお鉢回りをしたり、噴火口に降りたりすることは、観測所員という身分を考えると慎まねばいけないことだったが、なにしろ若くて精力があり余っているころだから、観測所の中にじっとしていることができずに暇さえあれば外に出て、風とたたかい氷とたたかった。

同僚と二人で二月の堅氷を踏んで、お鉢回りをしたことがあった。金明水のほうから剣ヶ峰へ登ろうとしていたとき、私の上方二メートルのところにいた同僚が足を滑らせて、氷の上を滑り落ちてきた。それを止めようとしたが止められず、私は彼のアイゼンで肩を蹴られて、すっとんだ。二十メートルほど滑って運よく岩に衝突して止まった。もう二十センチほどはずれていたら、噴火口に落ちて死ぬところだった。二人ともたいした怪我はなかったが、このときばかりは半ばあきらめていた。一瞬のうちに二十メートルを滑落したが、その間に、なぜこんなばかな真似をしたのだろうかとか、死んだ場合に迷惑をかけるだろう多くの人の顔を思い浮かべたりした。このときはかなりこたえたが、二人で相談して、このことは誰にも言うまいと誓った。一週間ほどはおとなしくしていたが、また氷壁の美しさに牽かれて外へ出て行った。前の失敗があったから、足もとには充分に注意した。このときの同僚はその後戦死した。気持ちのいい男だった。

富士山の帰途遭難事件を起こして新聞沙汰になったことが一度だけあった。富士山頂を早朝に出発して、富士山麓の十里木に下山し、そこから愛鷹[あしたか]山を縦走して沼津に出ようという計画だったが、早春だったので、途中の残雪に悩まされ、位牌岳[いはいだけ]あたりで日が暮れてしまった。夜中歩いて、人家のあるところへ出たのは朝であった。われわれが予定時刻に帰らないので、山麓では遭難救助隊が出動するところであった。この時は生命の危険は感じなかった。咽喉[のど]がかわいてつらかった。自分たちの足に自信を持ち過ぎたことが失敗した原因だった。

これらの冒険や遭難のまねごとは私自身のことであったが、同じようなことが、冬富士を訪れる一般登山者の間にもしばしば起こった。私の山を見る眼が肥えた。山の怖ろしさを身にしみて感ずるようになった。私は長野県の諏訪に生まれた。私の生まれた家の標高がちょうど一千メートル、どっちを見ても山ばかりというところに育ったので、子供のころから山歩きには馴れていた。しかし、登山家のやるような登山をやったことはなかった。私の冬富士登山は観測所で勤務するための登山であった。いわゆる登山とはいささかおもむきを異にしていたが、冬富士登山そのものが、本格的姿勢でなければできなかったから、いつの間にか登山というものが身につくようになっていた。

私はこうして、夢多き青春の三分の一か四分の一は富士山頂で暮らし、後は東京で過ごしていた。戦前の官庁の現業勤務は、まことにきびしいものであった。二十四時間勤務をして、翌朝は下宿に帰って休養し、その翌日はまた二十四時間勤務というようなことは珍しくなかった。朝出勤して夕刻に帰るというような、普通のサラリーマン生活がうらやましかった。こういう勤務だから、日曜、祭日はなかった。大晦日を当直室で過ごすようなことは独身者には当たり前のことであった。味気がないといえば全く味気がない生活であった。こういう東京勤務よりも、登下山には危険が伴うけれど、富士山頂の勤務のほうがずっと気が楽だった。寒いけれども個室が与えられているし、食事は官費でまかなってくれる。余暇には本も読めるし、山歩きもできた。実際、富士山ではよく本を読んだ。昼間はストーブの傍で本を読んだが、夜は自分の部屋のベッドにもぐりこんで読んだ。いつしか眠りこんでしまって、気がついたら、吐く息が本の頁について、凍りついていたことがあった。でも、われわれ若い者は、東京の勤務を嫌って山にばかり逃げたがった。出張費が、ほぼ私たちの月給と同じぐらい貰えた。当時の富士山頂観測所員に対する待遇はたいへんよかった。命を賭けての勤務という点に対して国もちゃんと見ていてくれたのである。当時の月給が六十五円であった。富士山に一ヵ月いると、月給と出張費とを合計した百三十円がぽんとふところに入るのだから、富士山から降りた日には、熱海や伊豆の温泉に、二、三日滞在して一ヵ月間の垢をゆっくり落としたものであった。


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