「無意味な漢字が多いことについて(機械で書いた文章から抜書) - 高島俊男」お言葉ですが・・・別巻1 から
無意味な漢字が多いことについて 文章を書く機械ができるまでは、ひとは自分で文章を書くほかなかった。辞書のたすけをかりることはあるが、それはそうひんぱんではない。全面的に依拠するわけでもない。文章を書く主権は、ほぼ完全に、書くひとの手中にあった。 いまは、主権の半分くらいを機械がにぎっているようだ。 ポンとたたくとなにか漢字が出てくる。それでよいのかどうか判断するちからがない。すくなくとも薄弱である。機械が出したものだからたいていこれでいいのだろう、と委任してしまう。これも循環で、ちからが薄弱だから機械にまかせるのがならい性となってますますちからが衰弱するのである。 これはしろうとの書いたものだが、「思いで」と「思い出」がゴチャゴチャなのがあった。「子供のころの思いでは」とあったり「つらい思い出見ていた」とあったりする。 機械まかせであたまがバカになったよい例である。 概して、無知なひとの書いたのほど漢字がおおい。これは機械で文章を書くようになってから生じた奇現象 である。むかしから無知無学の輩は、なんでも漢字のおおい文章が上等の文章だとおもいこんでいる。かなを書くことをはじる。かなのおおい文章を書いたら漢字を知らないとひとにわらわれる、という強迫観念 がしみついているのである。だからポンとたたいてとにかく漢字にする。それもなるべく漢字の多い変換をえらぶ。「ともだち」でよいものを「友達」と漢字にしたほうがりっぱかとおもうのがこういう連中である。
もっとも、機械が内蔵している「辞書」をつくる人も程度がひくいのである。工学部かなにかを出て、機械には強いがことばや文字のことはなにもわからぬ連中がこしらえているのだろう。なにもわからぬから、ひたすら国語辞典をたよりにする。 国語辞典を見ると、かなで項目が立っていてカッコして漢字が書いてある。これは、字音語と和語とで意味がちがう。「きぎょう【企業】」とか「りかい【理解】」とかいった字音語は漢字のほうがあたりまえである。しかし、「からむ【絡む】」とか「ととのえる【整える】」とか、あるいは「さかさ【逆さ】」とか「むずかしい【難しい】」とかいった和語は、もし漢字で書くとしたらこうだ、ということをしめしているにすぎないのである。かならずこう書け、と言っているのではない。いやむしろ、こうした本来の日本語は、漢字なぞつかわないほうがいいのである。ところが機械の「辞書」をつくる人は、それを一視同仁、すべて漢字で書くべきものとしてしまうらしい。 いまたまたまかたわらにある本--これも一応ことばや文章についての本だが--をひらいてみると、「しかも、難しいほど有り難いとされる文字文化だったのである」というところがあった。わずか数字をへだてて同じ字が出てきて、一つは「むずかしい」とよませ一つは「がたい」とよませる。機械に一任して文章を書くとこういう程度のわるいものができる。またそうなるようにつくってあるのが文字書き機械である。もっとも、機械で文章を書き、また機械で書いた文章をよむのになれてしまったひとは、「難しいほど有り難い」のごときを醜悪とも感じないほど感性が鈍磨しているかもしれないが。
程度のひくい人が機械をつかって書いた悪文章をもっともかんたんに見わけるには、「付」「掛」「込」の、三字があるかどうかを見ればよい。 「おちつく」「かけつける」など「つく」「つける」のつく語は非常に多い。「よびかける」「とおりかかる」など「かける」「かかる」も多い。「かんがえこむ」「たちこめる」など「こむ」「こめる」も多い。 これらに、「落ち付く」「駆け付ける」「呼び掛ける」「通り掛かる」「考え込む」「立ち込める」などと「付」「掛」「込」の字をもちいるのは、なんの意味もない。きたならしくめざわりなだけである。 「付」の字は、「交付」「配付」などの手わたしの意の語、および「受付」など二三の慣用的表記以外には用のない字である。 「掛」は日本語の文章ではいっさい用のない字である。 「込」は牛込など固有名詞以外には用のない字である。 しかるに機械の「辞書」は盛大にこの三字をしこんであるらしい。そこで漢字のおおいのが上等の文章とおもいこんでいる無知の輩は「落ち付く」や「呼び掛ける」をえらぶのであろう。 さきほどの本を見ると、「話が付いた」「囲みを付けて」あるいは「手掛かり」「時間を掛けて」のたぐいがぞろぞろである。まずこれで、なかみのほどもわかってしまうのである。 「付」「掛」「込」の三字を征伐しただけでも、文章はだいぶ品がよくなる。