「生死事大 無常迅速 ― 玄侑宗久」禅語遊心 ちくま文庫 から
これはよく、時を報じて打つ木版などに書いてある言葉だ。生死[しようじ]のことは人生の一大事であり、待ったなしの緊急テーマだということだろう。『伝燈録』五の「永嘉玄覚[えいかげんかく]」条、また『六祖壇経[ろくそだんぎよう]』にある。木版ではたいていその後に、「各[おのお]の宜しく醒覚し、慎んで放逸なること勿れ」と続く(「光陰可惜 時不待人」と続くものもある。また中峰国師座右銘では「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」)。とにかくその厳格な言葉の書かれた板が打たれる音を聞きながら、修行僧たちは暁天の「彼は誰(かわたれ)どきの坐禅や、夕景の「誰ぞ彼(たそがれ)」どきの坐禅に励むねである。
道元禅師の『正法眼蔵』を要約した「修証義」では、このことが「生を明らめ、死を明らむる仏家一大事の因縁なり」と綴られる。仏教徒にとって何より大事なのが、生死を明らかにすることだというのだ。 ではいったい、生死とは何なのだろう。 生まれて、死ぬこと。それには間違いない。しかし禅の考える生死の単位は、一生に一度生まれ、一生に一度死ぬことではない。 肉体的にもこのことは云えるのだが、我々のからだは、同じ細胞が生きつづけているわけではなく、次々に構成要素が変わりながら、しかもある一定のシステムを保っている。禅はこの構成要素と共に明滅する心の生死に注目するのである。 一つの心の生起する時間を刹那というが、これはおよそ七十五分の一秒。また似たような時間に「一弾指[いちだんし]」という単位もある。いずれにしても、こういう極めて短時間のうちに生死は起きる。「生死は一呼吸の間にあり」とも云う。修行者は刹那ごとに新しい命が発生する現場を凝視しなくてはならない。それが仏教徒最大の務めだと、この言葉は告げているのである。