Quantcast
Channel: nprtheeconomistworld’s blog
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3329

「東海道品川宿(一) ― 岩本素白」岩本素白随筆集 東海道品川宿 から

$
0
0

 

東海道品川宿(一) ― 岩本素白岩本素白随筆集 東海道品川宿 から

 

武蔵野の末を細々と流れて来た野川の水が、目黒村を過ぎ大崎村を通って東の海に注ぐ所に、昔の東海道品川宿があった。浮世絵師が好んで描いた高輪の海、八ツ山の丘、その頃は海も蒼く丘も茂っていて、早立ちの旅人は爽やかな朝の光の中を、いよいよここから江戸を離れて東海道にかかる。宿場の入口は多くだらだら坂になっているものだが、この宿[しゅく]も八ツ山から下りになっている入口を俗に「坂」と呼んでいた。明治になっても「坂」にはまだ何軒かの引手茶屋が残っていた。紙で張った細長い意気な形をした軒行燈[のきあんどん]の、白々と残っている暁、西へ向う遊子はここで先ず最初の旅愁に似たものを感じたであろう。それから歩行新宿[かちしんじゅく]、本宿。本宿には本陣があって、ここまでが北品川である、ほんの一と跨ぎの目黒川に架かっている小さい橋を、境橋というのが本当らしいが、土地の人はただ「橋」と呼び、それから先は南品川で、人々は「南」とも「橋向う」とも云っていた。南品川も一丁目二丁目辺までは賑かだが、三丁目先からは段々寂しくなって、俗に観音前という品川寺辺からは愈々[いよいよ]街道めいた屋並みになり、昔ならそろそろ目附きのよくない駕籠かきや雲助がいたのだが、明治の中期頃になってもやはりがらの悪い人力車夫を見掛けたもので、それから漁師町の鮫洲、浜川を過ぎると、合[あい]の宿大森にはいるのである。

昔、江戸から出て陸羽街道に向い、また右にそれて陸前浜街道にも通ずる千住の宿と、甲州街道の出口の新宿とは、明治以後だんだん風貌を変えて、殊に震災と戦火に遭って以後は殆ど昔の面影は残っていない。ただ中山道[なかせんどう]板橋の宿だけが、ほんの僅かながら一部のみ電車通りの裏町として残っているのである。然し東海道品川の宿は、最初、町裏を京浜電車が走り、次いでその西を京浜国道が幅広く削りはしたが、海に沿った通り筋だけは昔のままに残ったので、今も鮫洲へんまでは路幅の狭い旧街道の面影を残している。この品川宿に就いての私のややはっきりした意識と記憶とは、満四歳を半年ばかり過ぎて、当時八年制の小学校に入れられた時から始まる。まだまだ宿場町の面影を色濃く残していたものの、すでに明治も中期にはいって、正確に云えば東京府下、荏原[えばら]郡北品川であった。さて、この文章もここまでは槍を立て挟み箱を担がせ、行列を揃えて東海道を上って行くような調子で書いて来たが、もともと自分では気儘勝手な随筆である。そろそろこの辺から行列の格を崩すのもよかろう。書き出しは品川も宿の入口の「坂」から初まったが、今、南のはずれの鮫洲に言い及んだのだから、いっそ一足飛びにそこらへ飛ぶのも随筆らしいであろう。

江戸時代には紅葉の名所として唄にも唄われた海晏寺[かいあんじ]は、鮫洲の町の一部が残ったのに、国道が出来て広い境内が削られ、今は散々の体[てい]になってしまっている。ここの海がわ、と云っても今はすっかり埋め立てられて海には遠くなったが、明治の或る時代までは朝潮夕汐が岸へ寄せて来て、晴れた日は向う地が手に取るように見える時があった。向う地という言葉を今も使っているかどうか、古く安房上総を遠く見て向う地と云ったのである。ここに古い一軒の料亭があった。会席料理で川崎屋と云う。明治になってすっかり衰えてしまったのだが、海晏寺に明治の功臣と云われた人の墓が出来た頃から再び盛り返して来たと云う。小学校へ通い出した頃である。私は或るゆかりのある家からこの町の祭に呼ばれたことがあった。海沿いの家で、入口は狭い昔の街道に面し、奥は下を物置きに造った二階めいた欄干があり、海を見晴らす変った屋造りを子供心に面白いと思った。夕汐の上げて来る中を、若いあるじの松さんは、持てなしごころで幼い私を背中にして海へはいった。未だ人々が海水浴など余り言わない頃で、海にも川にも水にはいることは私にはそれが始めてであった。最初は好奇心と恐怖とが相半ばしたものであったが、あたりは祭とは云え静かな海辺で、それに蒼茫として暮れて行く海の色を見、波の音を聞くと、すっかり怖くなって、もう帰ろう帰ろうと松さんの背中で騒いだのを覚えている。川崎屋はじきその家のさきであった。

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3329

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>