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「新秋雑想 ― 小出楢重」小出楢重随筆集 岩波文庫 から

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「新秋雑想 ― 小出楢重小出楢重随筆集 岩波文庫 から

 

立秋という日が過ぎて、どれだけ私のパレットの色数に変化を来したか、それはまだはっきりとは現れない。ただ天地の間に何物かが一つ足りなくなって行く空白を、私の全身が感じるだけである。時に、甚だ冷たい風が心もち赤味を帯びた夕方の太陽の光に交って、木の下草の蔭へ吹きよせるだけである。すると、夏から用意されていた虫の子供が成人して、かすかなる音を立て初める位の変化を現す。私は深い秋より以上に、この新秋が来た天地の微かなる変化を愛する。

だが、健康の人はこれに元気を回復し、やがて来るべき朝寒むへの用心のために脂肪を蓄積するであろう。しかし、われわれ骨人はその立秋の変化にあたりて下痢を催し、骨人は断然百パーセントの骨に近づく。

春の草は丈け短く、地にがっしりと腰を据えたるが多く、花は紅を基調とする。夏草は中等に伸び上り、花は白が基調である。秋の草は蔓を延ばし、ひょろひょろと細く、どこまでも高く、骨人や幽霊の類に配しては、全く気の毒なほどよく似合う背景となり、萩、桔梗、すすき、女郎花[おみなえし]の類は怪談の装幀によろしく、その色彩もうす紫が地となっている。

雨月物語』の中のいずれの章であったか、俺れが今度旅から帰るのは葛の葉の裏が白く風に翻るころだろうといった意味の文章があった。葛の葉の裏の白さは初秋の空白を示している。私の画室の近くは、今この葛の葉で全く蔽われている。

去年の初秋のころ、私の家には「銀」と呼ぶ白猫がいた。その眼は金色で、尾は狐の如く太く地に曳いていた。全身は綿の如く白く柔軟だった、毎朝、彼女は犬の如く私に従って松原を散歩した。銀は葛の葉のしげみに隠れて私を待つのだ。白い尻尾が左右に動いているのが見える。私が近づくと彼女は妖魔の如く、音もなく高く飛び上って、また次のしげみへ隠れて私を待つ。

銀はその後、勝手に一人、この叢[くさむら]へ遊びに行くようになったが、私がその名を呼んで手を叩くと、彼女はどこからともなく私の足もとへ直に帰って来た。ところが或る日の夕方、私が如何に手を叩いても銀は現れないのだ。

私はそれから、この葛の葉の蔭に白い紙片が落ちていても、銀かと思って立ち止まった事がしばしばであった。

 

フランスなどの四季の変化は甚だ緩慢で、よほど注意していないと秋にいつなってしまったのかわからない事さえある。いつとはなく次第々々に冬が深くなって行く。

ところが日本の四季の変化は急激で非常にはっきりしている。土用で鰻を食べたかと思う間もなく立秋である。すると、早速にも入道雲の峰が崩れかかり、空の模様が異常を呈する。それはショーウィンドのガラス面へボンアミを平手で塗りつけた如く、かき乱されたる白雲が青空に塗りつけられる。

するとやがてラジオは小笠原島の南東に颱風が発生した事を報じる。重い湿度はわれわれの全身を包んで終日消散しない。驟雨[しゆうう]が時々やってくる。そしてどこからとも知れず、通り魔の如く冷たい風が訪れる。そして重たい汗を冷却して膏薬にまで転化させる。

もう九月が近づくと天上の変化のみならず、地上のあらゆる場所から何物かが引去られて行く気配が見える。例えば道頓堀に浮ぶ灯とボートの群が、真夏ではただ何か湧き立って見えるけれども、九月に入ると湧き立ち燃え上るような焔[ほのお]が日一日と消え去って行く。

軒並みの浴衣の家族が並ぶ夕涼みがそろそろ引込んでしまう。

以前、私の家では、かかる季節には必ず床の間の軸物が取りかえられた。初秋に出る掛物は常に近松の自画自讃ときまっていた。それは鼠色の紙面へ薄墨を以て団扇を持てる女の夕涼みの略図に俳句が添えてあった。「秋暑し秋また涼し秋の風・・・か。なるほどよういうたあるなあ」といって父は幾度か感心して読み返した。すると、その床の間の隅の暗い影から朝すず虫が鳴き出すのだ。ほんとに千九百三十年の私の今の文化住宅から見ると全く以て平安なる日本的情景であった。

盆が来ると寺の住職が大礼服によって出張する。線香の煙と、すず虫と、近松と、お経と木魚の音が新秋の私を教育してくれた。と同時に私は略画の情趣を知らぬ間に感得してしまった。何が私に絵心をつぎ込んだかと流行語で問うたなら、近松門左衛門がそうさせたといえば足りるであろう。

床の掛物が、学校教育よりも私自身により多く作用した事は恐るべきものである。


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