「ポルノグラフィについて 岸田秀」中公文庫 続ものぐさ精神分析 から
問題なのは、なぜ人間は、動物のように性行為をするだけで満足しないで、他人の性器や性行為を見たがるのか、他人の性行為だけでなく、ラブ・ホテルに鏡やビデオの設備があることが示しているように、自分の性行為すら、あたかも第三者のように観察したがるのか、なぜポルノ小説を読み、ポルノ写真を見たがるのか、ということである。女性器の形態や構造は、どの女のものだってたいして変わらないのに、なぜストリップを見たがるのか、ということである。
それはわれわれにとって、性というものが本質的に不可解なものだからである。わたしはかねてから、人間においては性本能はこわれてしまっていると主張しているが、性本能がこわれたということは、いいかえれば、性行為が本能によって規定された一定の意味を失ったということである。動物は種族保存のためにしか性行為をしない。妊娠している動物の雌は雄を受けつけない(動物園の猿はマスターベーションをするが、それは、動物園という人工的環境におかれて、自然から切り離されているためである。動物園の猿は、自然から切り離されているという点において、人間と同じ条件のもとにおかれているのである。人工的環境におかれた動物には、マスターベーションのほかにも、退屈して身体をかきむしるなど、一般に人間しかやらない無意味な行動が見られるが、動物は、人間によって無理やり人工的環境におかれ、そのため、本能による適応に齟齬が生じ、その結果として無意味な行動に走るのだが、人間は、まず本能がこわれ、その結果として無意味な行動に走るのだが、人間は、まず本能がこわれ、その結果として人工的環境をつくらざろう得なくなったのであり、そこに大きな違いがある)。人間にあっては、性行為は、種族保存のためという意味を失い、無意味な行為となった。われわれは、自分が何のために、どうして性行為をするのか、正直なところ理解できないのである。女の股倉のあの、毛の生えた湿ったところにどうして惹き寄せられるのか不思議でたまらないのである。腑に落ちないのである。これこれのためだと何の疑いもなく確信できる確実な目的がない。また、本当のところ性行為はどうやればよいのか、どうするのが正しいのかわからない。したがってわれわれは、性に関してつねに不安を抱いている。この不安から逃れるため、われわれは、本能に規定された意味を失った人間の性行為に何らかの意味を与えなければならない。本能に規定された意味を欠いているわけだから、人間の性行為はどのような意味とも結びつくことができる。個人はおのおの勝手な意味を性行為に与えており、この勝手な意味は、本能の目的と関係がなく、したがって現実から遊離しているから、幻想と呼ぶことができ、さらに個人おのおのの勝手なものであるという意味において、私的幻想と呼ぶことができよう。個人において性行為はさまざまな私的幻想と結びついており、個人の性的欲望はこの私的幻想に支えられてはじめてその表現形式、行動形式をもつ。しかし、もちろん、私的幻想に支えられたからと言って、性にまつわるわれわれの不安が解消するわけではない。地図もなく五里霧中の山のなかにひとりいる状態から、自分勝手に見当をつけて一応の地図をつくった状態へ移ったぐらいのところであってその地図が正しいかどうか確実でなく、われわれは、依然として不安である。本能によって描かれていた正しい地図はなくしてしまったのだ。幼児は多形倒錯的であるよフロイドは言ったが、そのことをこの譬えにいいかえてみれば、幼児は、自分勝手にある地図をつくってそれに従ってちょっと歩いてみて、うまくゆかないのでまた別の地図をつくり、それでもうまくゆかないのでさらに別の地図をつくるということを繰り返して迷いに迷っているということである。いわゆる口唇期―肛門期―男根期―性器期という心理=性的発達過程は、個人が一般にどのような地図をどのような順序で描くかを示したものに過ぎず、あらゆる人に妥当する、本能的に規定された発達過程ではない。いわゆる性器期とは、「正常な」性行為という道筋が描かれている、社会的に規定された地図を受け容れる時期である。すべての人がこの地図を受け容れるわけではないし、一応受け容れたとしても、それまでに描いたいろいろな「倒錯的」地図を忘れ去ってしまうわけではない。