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「じゃんけんで負けて俳句に出会ったの ― 池田澄子」私の死亡記事 から

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「じゃんけんで負けて俳句に出会ったの ― 池田澄子」私の死亡記事 から

 

池田澄子[いけだ すみこ]一九三六(昭和十一)年三月二十五日、神奈川県鎌倉市生まれ。俳人

 

池田澄子(いけだすみこ)、俳人敗戦の日を過ぎた早朝、暑気中[あた]りによる血圧低下で逝去。枕元に、一ファンより暑中見舞いにと贈られた数十本の白百合が活けてあったことから、香に噎[む]せてとも考えられている。

一九三六年三月二十五日午後六時、父・鈴木清蔵、母・幸枝の長女として鎌倉市に生誕。産婦人科医であった父は一九三六年九月、軍医として招集を受け、宮城県玉浦村東部一一一部隊を経て満州の敦化に出征。その後中支へ派遣された。それ故、新潟県村上町(現・村上市)の父の実家に転居した。一九四四年八月二十日、八歳のとき、父、漢口陸軍病院にて戦病死。享年三十四歳であった。

十一歳のときに母が再婚し、新潟市に転居。養父の愛に育まれ思春期を海に近く暮らし、海と雪への思いを濃くした。

初めて詩を書いたのは八歳、父の死を聞かされたときのこと。短歌を書いたのは、翌年、天皇のご巡幸の折のこと。以来、詩などを書くようになった。しかしその頃、言語による表現の中で俳句だけは意識の範疇になかった。

初恋の池田龍夫と結婚し一女一男に恵まれ、三十九歳後半、突然、俳句に出会う。堀井鶏より手解きを受け、その後、三橋敏雄に私淑のち師事。三橋の何を受け継ぎ、三橋は書かない、否、三橋には書けない澄子俳句をどう書くかを考えることで、俳句に深入りすることとなった。文語を用いても漂う口語的文脈は、師の励ましとGOサインによって確立したものであった。

かなり見られる戦争に関わる作品は、一人の父への思いを越えて、多くの父たち兄たちへの挽歌であり愚かしい人災への怒りであったろう。そのことの作品化の困難に加え、次第に理解されにくくなることを承知しながら、また、むしろ永遠に理解されない未来を願いながら、池田の書く行為の原点として、終生その主題は手放されなかった。句集に『空の庭』『いつしか人に生まれて』『現代俳句文庫29・池田澄子句集』『ゆく船』他。『現代俳句集成』『女流俳句集成』『現代詩歌集』他に作品が収録されている。『空の庭』中の「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」が最も人口に膾炙したと見られているが、池田の俳句のピークは、実は『ゆく船』以降であった。

外出を好まず、同じ部屋の同じ場所で俳句を書いていた。低血圧で暑さに弱く夏は特に家居を好んだ。「私の記憶によって、父は在る」と語っていた池田の逝去によって、父・清蔵の死もまた完了したのである。夫君と長女長男の家族によって、故人の希望どおり、父の遺骨が沈んだ日本海へ散骨される。

 


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