「わたしを蹴りあげる雪の日 ― 川上未映子」新潮文庫 すべてはあの謎にむかって から
大阪生まれの大阪育ちのわたしに雪の思い出にそんなに密接しているわけでもないのだけど、初めて雪の積もっているのを見た日のことはよく覚えている。わたしが8歳、祖父が亡くなる年のことで、それがみんなで過ごした最後のお正月になった。団地の窓から外を覗けばなにもかもがあまりに白くて音も人もなにもかもが雪に吸いこまれてゆくようで綺麗なんだけど恐ろしくて、いったいあれはなにが降っているんだろう、うまく口がきけなかったのも覚えている。
こんなふうに雪が降ると、たったひとつのその雪の記憶と一体となって立ちあがってくるものがあって、それは宮澤賢治の「永訣の朝」なのだ。
「けふのうちに/とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ/みぞれがふつてもおもてはへんにあかるいのだ」
こんな書き出しで始まる、今日死んでしまうだろう妹をうたった詩で、妹は死の床で兄賢治に雪を取ってきてほしいと頼み、賢治はふたりで使ってきた揃いの茶碗を持って雪のなかへ飛びだす。
最愛の人がいままさに死んでゆくという緊張と悲しみが誰の意志でもなく降りつづける雪と重なり、賢治の想いと妹の言葉はまるで無常と無垢が掛けあわさってなにかこの世ではない場所から聞こえてくる合唱のような響きを持ち、ああ、生きてる者にはもうこれどうしようもないよな
というような気持にさせる。
「おまへがたべるこのふたわんのゆきに/わたくしはいまこころからいのる/どうかこれが天上のアイスクリームになつて/おまへとみんなとに聖[きよ]い資糧[しりよう]をもたらすやうに/わたくしのすべてのさいはいをかけてねがふ」
こうして終わるこの詩をわたしは好きでも嫌いでもないけれど「色々あるけど、でもこういうのはやっぱり宮沢賢治で最後だったんだな」と遥かな気持ちになってしまう。
つまり、いまとなってはもうこのような形でこのような内容を書くことが全方位的にしんどいのではないだろうかということだ。それはベタをそのままベタに書き切るということが望むと望まざるとにかかわらず別の効果を自動的に連れてきてしまうということで、仮におなじような体験と能力を持っていたとして、宮澤賢治以降の人間が賢治的な表現を(妹話だけじゃなくて)やってしまうとなるとー誤解を恐れずに言えば、ある種の無防備な(笑われることを想定していない)お笑いになってしまうのではないかという危惧があるのだった。どれだけ洗練されていても「美化」と「泣き」はつねに安易で、回避したいところではある。
しかしそれだけが持ち得る強度というものもたしかにあって、その強度こそがこんな雪の日に「ベタじゃないんだよ、こっちはいつだってマジなんだよ」とわたしの額と胸の奥をがんがんに蹴りあげるのであった。雪。賢治。その他の悲しみ。