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「「ものぐさ精神分析[増補新版] ― 岸田秀」の解説 ― 伊丹十三」中公文庫 「ものぐさ精神分析[増補新版] から

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「「ものぐさ精神分析[増補新版] ― 岸田秀」の解説 ― 伊丹十三」中公文庫 「ものぐさ精神分析[増補新版] から

 

『ものぐさ精神分析』は、私にとっては特別な本である。本屋の書棚で、全く偶然、何の予備知識もなく、岸田秀という未知の名前を冠したこの本に出会い、澁澤龍彦の帯の文句に惹かれて買い求め、半信半疑の面持ちで読み進むうち、いつしか私の存在の一番深いところで共鳴が始まり、遂に「わたしの原点」という文章の、母親を語った個所に行き当った時、私は自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、目の眩むような強い光が射しこむのを感じ始めたのである。世界が、俄かにくっきりと見えるのを私は感じた。私は、自分自身が確かに自分自身の中から手を伸ばして世界をつかみとっているのを実感し、驚きと喜びに打ち震えた。私はまた、自分がゼンマイ仕掛けの小さな玩具の自動車である、とも感じた。その自動車はゼンマイを巻かれたまま不透明なボウルのようなもので蓋をされていた。私の幼い日に母親がかぶせたのであろうところのそのボウルが、四十年も経ったある日、誰かの手によって突然取り除かれ、玩具の自動車は、生まれて初めて、自分の力でそろそろと走り始めたのであった。

この体験の意味はいまだに定かではないが、恐らく、私がそれまでかけられていた催眠術から解き放たれたのだ、という云い方が一番当っているのではないかと思う。人生が一種の催眠術であることを発見したのはフロイトであるが、確かにフロイトの説くとおり、われわれは人生の初期において親や社会からさまざまな催眠術をかけられる。物事には善悪があるとか、失敗したら大変なことになるとか、男は男らしくとか、女は女らしくとか、セックスは穢いものだとか、母親との関係こそが至上の関係であるとか、その他もろもろの暗示が有形無形のうちに吹きこまれ、それらは最早私の人格の土台に構造として組みこまれてしまい、以後私は自分の人生において、あたかも催眠術にかけられた人物の如く、失敗を恐れたり、誰かの賞讃を当てにしたり、いつしか人を道具にしたり、ともすればさまざまな防衛を張りめぐらして自分の中に閉じこもったり、常に自分を無価値なものと感じたりして生きるのだ。

このような催眠術は大人になってからの適応の形式に必ずしも一致せぬため、往々として人を苦しめるが、だからといってこの催眠術から自由になるのが簡単なことではないのは、第一に本人が自分が催眠術にかけられた存在であることを自覚しておらぬためであり、それもそのはず、催眠術から自由になるためには、それをかけた母親を否定せざるをえないが、母親を否定してはならぬということもまた催眠術に含まれているため、この催眠術は、催眠術から覚めてはならぬという催眠術であるに等しく、従って自分の力では催眠術から覚めることはおろか、自分が催眠術にかかっていることを自覚することすらままならぬのだ。私の場合、催眠術と現実の齟齬に永い間苦しみ、その息苦しさゆえに、掛けられた催眠術と自分の分離がある程度自分の中に進行していたのであろう。そこに『ものぐさ精神分析』が最後の衝撃を与えてくれ、私は一気に催眠術をかけられたものとしての自分を外側から見る視点を得ることができた。というのが、あの、世にもすっきりとした体験の意味であったかと思われる。

以来数年、この、目の覚めるような体験も次第に私の中で風化しつつあるが、その原因は恐らく、人間は言葉でできており、従って私が自分を説明するためには言葉を説明する言葉、すなわちメタ言語を持たねばならず、生まれて初めて自分に関する十分なメタ言語を持った体験が、あの体験であったとするなら、そのメタ言語体験が永続しようがないのは、今度はそのメタ言語を含みこんだところの自分を説明する更なるメタ言語が必要になってくるためであり、そのメタ言語は更に上位のメタ言語を求めて果てしがなく、これは人間が言葉の束として生きている以上、逃れる術のない業であるのだろう。


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