「私の死亡記事 ― 立川昭二」人生の不思議 から
《【路地裏の歴史学の開拓者、逝く】
立川昭二が一ヶ月ほど前に死亡していたことがわかった。本人の生前の意思で、葬儀は身近な者だけで行われ、最近その死が関係者に知らされた。死因や死に場所など不明。行年□□歳。
病気やv医療を文化史・心性史の視座から追究し、老いや死についても発言、独自の領野を拓いてきた歴史家。(中略[ママ])『歴史紀行・死の風景』で第二回サントリー学芸賞を受賞。(中略[ママ])人名辞典などでは「医療文化史の第一人者」、「路地裏の歴史学の開拓者」などと記されているが、本人は後者の評を好んでいた。(中略[ママ])小学校・中学校(旧制)を通して学業成績はふるわず、からだも虚弱で、学校時代はあらゆる面で暗かった。受験期はちょうど戦争のさなかで、ほとんどの者が軍人や医者や理科系の学校をめざしたが、戦争にかり出されることを覚悟で文科を選んだ。
学徒出陣を目前にした十七歳のとき、大和路の古寺や仏像をはじめてたずねる一人旅をしたことが、戦後に歴史学を選ぶきっかけとなった。(中略[ママ])(大学卒業後)長い間定職につくことができず、前半生は「落ちこぼれ」であった。たまたま三十九歳のとき新設の北里大学の教授となり、(中略[ママ])現役のときも二足のわらじであったが、大半の著作は定年後の作品であり、(中略[ママ])老年に入って健康で精力的であった。私淑していた江戸時代の文人神沢杜口[かんざわとこう]のように「書くこと、歩くこと」をモットーとしていたが、その「返り花」の秘密は本人亡き今は不明。(中略[ママ])山好きであったこともあり、長野県の富士見高原で毎夏を過ごしていた。音楽に耽溺し、美術を愛好していた。墓はかつて住んでいた東京都台東区根岸の西蔵院にある。》
新聞の社会面には「死亡記事」という欄があるが、これは『私の死亡記事』(文藝春秋)という本に載せた私の「死亡記事」の抜粋である(「文春文庫」で再刊)