「出題者の悪夢 ― 福岡伸一」ルリボシカミキリの青 文春文庫 から
前頁で、福岡ハカセの文章がとある大学の入試問題に使われた話を書いた。その設問があまりに面白かったので思わず突っ込んでしまった。が、天に唾するものはまた同じ憂き目に遭うのが世の中の常。
私たち大学で教えるもののあいたで言い習わされていることがある。もし大学を辞めることがあるとすればそれはセクハラか、あるいは決定的な入試問題出題ミスを犯したときなのではないかと。むろん後者の話である。自戒の意味を込めて書きたい。
ミスの性質は多種多様。単純な誤字脱字、てにをはから始まって、前提条件が不十分なため二通り以上の解答がありうるとか解答不能だとか。履修範囲を逸脱しているとか。あるいは過去にそっくりの類似問題があるとか(これは実際のところミスとはいえず、完全に防ぐことは不可能です)。もっと複雑なケースでは、出題文に引用された著者の論理展開そのものに問題があるのに出題者はそのことに気がついていないというクレームまである(これは最近たまたま読んだ熊倉千之著『漱石の変身』という本に出ていた。平成二十年の東大入試問題は文学的に誤っている、というのだから穏やかではない)。
一般に、入試問題は秘密裏に指名された出題者が、秘密裏に作成する。ことの性質上、作った人が自らチェックし、自ら校正する。問題文は何度も何度も見直されるわけだが、落とし穴も実にそこにある。自分の文章を読みすぎて、自分では間違いに気づけなくなってしまうのだ。できれば外部の校閲者、いちばん理想的なのは受験秀才やプロの予備校講師に解いてもらうことができればよいが、それでは敵(?)にみすみす暗号解読表を渡すに等しい。
かくして私たちはタイトロープを渡るようなこころもちで作業をすすめ、実際の入試日を受験生以上の緊張の中で待つことになる。終わってからもしばらくは気が抜けない。高校や予備校などから指摘される可能性が残っているからだ。本当にミスが判明すると、お詫びを出し、適切な処理(全員に加点するなど)を行わねばならない。入試は一点の差で何人も並ぶので、合否判定や入学定員にも関わってくる。合格発表が終わった後だとより大きな混乱を招くことになる。
昔、こんな話を聞いた。十分練りに練った問題を出題した。出題者は考えさせる良問だと自負していた。ところが。試験開始後、しばらくたった時のこと。待機室に緊急連絡が入った。受験生から質問が出ています。「問題が解けない。数値が間違っているのではないか」と。馬鹿な。そんなはずはない。この場で簡単に模範解答を作ってみせるよ。ところが出題者は紙に鉛筆を走らせたまま、一向に顔を上げない。そればかりではない。何度も何度も計算をやり直している。額には汗。口からはうなされたような独りごとが絶え間なく発せられる。かなりの時間が経過した。まだ解けない。試験中の質問には何らかの回答が必要だ。訂正も時間内ならばなんとかなる。しかし解けない。おかしい。出題者仲間もそれぞれ解答を試みるが、皆、焦るばかり。そもそも出題者本人も解けない問題が解けるはずがない。待機室はパニックに陥った。そのまま時間切れ。試験は終了した。
あとになって重大なことが判明した。なんと文中に与えられた数値の小数点がずれていたのである。誰も気づかなかった。校正でも見過ごされていた。しかしミスはミスであり、しかも決定的なミスだった。そのうえ設問の配点が大きかった。混乱はあとあとまで尾を引くことになった。
福岡ハカセは出題者の焦燥が手に取るようにわかる。自分が作った、解けるはずの問題がどうしても解けない。必死に走っているのに全く身体が前に進まない。カフカ的状況。この悪夢に心底震撼する。それは明日にもやってくるかもしれないのだ。