私は「ドストエフスキー論」も「シェークスピア論」も書いたことがないが、「カブトシロー論」というのは書いたことがある。
カブトシローという馬は、私にとってドストエフスキーやシェークスピアよりも、はるかに「文学」的で、書く気を起させる馬だったのである。実際カブトシローは日本競馬史上、「死神」的な存在として、その呪術的な半生は、ファンにとっては忘れたくとも、忘れることのできぬものであった。おそらく、カブトシローのたたりで破滅したファンや騎手は数えきれぬ数にのぼるだろう。万馬券、落馬、八百長事件と、カブトシローのあらわれるところにはいつも事件があった。
アラブのように小柄で目立たない馬だったが、色はまっ黒で、文字通りのダークホース。そして、内ぴったりに追い込んできてスタンドをアッといわせるのが好きな馬なのだった。カブトシローは三歳の夏にデビューして十戦一勝、四歳になってからもいいところがなく、条件レースで十五頭立て十着。つづいて落馬のあと、たちばな賞という特別レースへ出走し、どん底の不人気で逃げ切り勝ちして穴となった。このレースが有名な八百長レース「山岡事件」だったのである。
カブトシローに乗っていた山岡は、その後中沢、関口薫らとともに「永久追放」にされて競馬場から去っていった。有馬記念に勝って日本一の栄誉に輝いたカブトシローと、追放されて競馬場を去ったその騎手、両者の運命を分けたものは一体何だったのであろうか?
カブトシローは、私と同郷の青森生まれである。血統的にはオーロイとパレーカブトの仔ということになっているが、中には「今にして思えば、あれはオーロイの仔ではなかった」と陰口をたたく者もいる。実際、オーロイの仔では、カブトシロー以外に目立った馬は一頭もいなかったのである。
母のパレーカブトは盲目の馬の子で、カブトシロー自身もそのデビュー戦で八頭立ての八番人気、単勝がわずか五十九枚しか売れないという「期待されざるデビューをした馬」であった。そのカブトシローが、どうして天皇賞や有馬記念を楽勝するような日本一の名馬になったのか、しかも、勝つたびに好配当になったか、ということは謎である。私に言えることはカブトシローがつねにじぶんの人気を裏切りつづけたということと、「名脇役」ではあったが、名主役ではなかった、ということくらいのものである。
私はカブトシローを映画『旅路の果て』の中の老優にたとえると、ミシェル・シモンの演じたキャプリサードという役だと思っている。一生スタンド・インですごした俳優が養老院に入り、名優の名台詞をほとんど暗記しながら、一度も晴れの舞台に立ったことのない男・・・彼の口ぐせは「罪なきキャプリサードは、自分の部屋から出たりしない」というのであった。
そのキャプリサードが生涯にたった一度だけ、「主役」のチャンスにめぐりあう。それは養老院の発表会の主役である。しかし、いともたやすい役どころだったにもかかわらず、キャプリサードは台詞を忘れて絶句して、大失態を演じてしまうのである。
カブトシローは、ステイヤーズステークスで一番人気になり、「主役」をわりあてられて惨敗し、目黒記念でも、楽勝できる相手に負けて一番人気を裏切って、スタンド中の罵声をあびた。しかし、脇役にもどるとたちまちお得意の内一気の追い込みをきめて大レースを勝ってみせた。「罪なきキャプリサード」どころか、まったく罪作りな馬で、それだけにその個性は、波瀾万丈の生涯とともに忘れ得ぬものとして人々に記憶されつづけてきたのである。
血統的にはまったく軽視されていたカブトシローだったが、天皇賞、有馬記念、カブトヤマ記念などを勝ったので、中央競馬会でもお義理でも「種牡馬として買い上げなければならなくなり」九州へ配転させられた。九州の種牡馬というのは、たいてい、軽視されていると見てよく、種付け料も七万円という安さだった。このまま、二流の種牡馬として「旅路の果て」でおとなしく余生をすごすのかと思われていたが、ゴールドイーグルという産駒を出して、突然、話題の種牡馬となった。
ゴールドイーグルは公営でデビューし、大井競馬で中央競馬招待競走に出走、中央の人気馬を相手にあっさりレコード勝ちして、カブトシローの反俗性をまざまざと見せつけてくれた。種牡馬になっても、「脇役」として主役を食ってみせる得意業は衰えていなかった、というところだろうか。
現在、延岡市沖田町の延岡軽種馬農業協同組合延岡所種付所の一号にいるカブトシローの、次のねらいは何か?いずれにしても、生きている限り、競馬をドラマとして楽しませてくれることだけは、まちがいないように思われる。長生きしてくれよ、カブトシロー。