もし、シンザンがいなかったら?というのは競馬ファンなら誰でも考えることである。日本一の名馬は、たぶんウメノチカラだったのだ。
ヒンドスタンとトキノメーカーとのあいだに生まれ、堂々たる黒鹿毛の体躯と、ブランドフォードの血を一八・七五パーセント受けついだウメノチカラは、いかにも名馬にふさわしい雰囲気を持った馬だった。
京都でデビューし、あっさりと新馬を勝ち、朝日杯三歳ステークスでは一番人気のカネケヤキ(のちのオークス馬)をゴール前で見事に差し切って、あっというまに関東ナンバーワンの座にのしあがってしまった。その頃、関西から出てきた同じヒンドスタンの仔のシンザンは、一見みすぼらしい馬で、たいした話題にもなっていなかったが、スプリングステークスで、ウメノチカラ、ブルタカチホといった関東の強豪を三馬身二分の一切り捨てて、一躍注目された。
だが、皐月賞でもシンザンは強かった。好位から、スルスルッと出て追いすがるアスカ、ウメノチカラを、また二馬身二分の一ひき離したままゴールインしたのである。「実力か、フロックか?」と誰もが迷った。
ウメノチカラはNHK杯に出走し(このレースにはシンザンは出走しなかったが)楽勝した。ダービーでの対決では、「こんどはウメノチカラが勝つ」と思ったファンも少なくなかった。人気は、シンザン、ウメノチカラの順だったが、ひそかにウメノチカラの逆転を信じていたのは、私ばかりではなかった。だれが見ても、ウメノチカラには横綱の風貌があり、シンザンには、十両のようなみすぼらしい(あるいは、ボサボサ頭の書生の)イメージしかなかったからである。
しかし、やっぱりレースになるとシンザンの力は抜けていた。逃げるサンダイアルを四コーナーでかわしたウメノチカラは、一気にスパートして、直線で逃げ切りの策に出た。ぐんぐん他馬をひき離すウメノチカラを見て、だれもが「決まった!」と思ったが、そこからのシンザンは、まるで、つむじ風のように速かった。どっと湧く歓声の中を、ゴールに先に駈けこんだのはウメノチカラではなく、シンザンだったのである。
夏を越したウメノチカラは、「ただシンザンに復讐するため」にだけ、調教したようなものだった。セントライト記念でレコード勝ちしたウメノチカラは、菊花賞で一番人気に推され、夏バテを伝えられたシンザンは、「こんどは無理」という下馬評だったのである。
ゲートがあくと、野平祐のカネケヤキがとび出した。競馬史に残る「伝説の百馬身の逃げ」である。コースの半周以上ひきはなして単騎逃げるカネケヤキを、どこでとらえるかがシンザンとウメノチカラ、栗田勝と伊藤竹の腕の見せどころとなった。場内は騒然となった。両馬が牽制しあっているうちにカネケヤキは早くも二周目の三コーナーから四コーナーへとさしかかったからである。ただの逃げ馬ならいざ知らず、桜花賞、オークスを勝った名牝のカネケヤキであっては、そのまま逃げ切られるということもあり得るだろう。
ついにたまりかねた伊藤竹のムチがとんだ。シンザンを意識しすぎて、カネケヤキにとどかなくなるのを怖れたからである。スパートするウメノチカラを見て、一呼吸おいて、シンザンにも栗田のムチがとんだ。ぐんぐん、差がつまる。直線半ばで、ついにカネケヤキは並ばれ、そして後退した。ウメチカラは必死に追いつづけたが、一呼吸の余裕がものをいったのか、シンザンはウメノチカラを尻目に二馬身二分の一の余裕でゴールインして三冠馬になったのだ。
五冠をことごとくシンザンに奪われ、競馬史にクラシックホースとしての名を記録できなかったウメノチカラにしてみれば、「もし、シンザンがいなかったら・・・」と思っても当然である。
現在は北海道浦河のうめの牧場で、種牡馬としての生活を送っているが、「腰を悪くして、思うように種付けができず」(牧場主梅野昇さん談)、産駒もシンザンの仔に大きく水をあけられている。
ことしの四歳馬でも、ビエント(ウメノエイコウとの仔)は四戦し、現在函館で走っている。ユーエスカオリ(ウメノカオリとの仔)は川崎、ウメノオーカンとの仔は岐阜、ウメノ二ホンとの仔は消息不明、トクノエース(ウメノクイーンとの仔)は三百万下に低迷中。期待できそうなのは、川崎で三連勝のユーエスカオリだが、シンザンの仔のはなばなしさに比べれば問題にならないだろう。
名馬と同じ年に生まれたのは、運が悪かったのさ、と言ってしまえばそれまでだが、私としてはウメノチカラの仔が、シンザンの仔とダービーで対決して勝つ、という夢を描かないわけにはいかない。何をやっても二番目だった人間にも、それにふさわしい栄光を与えてやりたいし、逆転のチャンスをもたせてやりたい。
競馬の快楽とは、運命に逆らうことだ、というのが、私に競馬の手ほどきをしてくれた娼婦のおときさんの教訓なのであった。