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「ロックプリンス ― 寺山修司」旅路の果て 河出文庫 から

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「ロックプリンス ― 寺山修司」旅路の果て 河出文庫 から

 

早稲田大学の学生会館の、薄汚れた二十七号室が私たちのたまり場だった。そこには詩人会と短歌会と俳句会が雑居していて、いつもビールの空壜や、アジビラの屑が散らばっていた。授業にはほとんど出なかった私だが、この部屋にはちょくちょく出入りしていた。いつも、長身で痩せた上級生が一人いて、いつも早口でまくしたてているのが印象的だった。

それが、大橋巨泉だった。巨泉は、加藤楸邨[しゆうそん]の「寒雷」に作品を発表する俳句作家だったが、むしろジャズ評論家として世に認められかけていた。俳句とジャズ、という組み合わせは、伝統と現代という単純な二元的対立の融合ではなく、もっと根深いところで巨泉の内的なリズムを生成していたようだった。

やがて、私は大学を中退し、病院生活、そして賭博、ボクシング、詩といったものへの耽溺の日々におちこんでいった。酒場の女と同棲生活をするようになっていた頃、ひょっこりと新宿のジャズ喫茶「きーよ」で巨泉に再会した。巨泉は白いスーツを着て、「ジャズ評論家」として世に出ており私は下駄ばきで相変わらず風来坊の生活をしていた。

私たちは、ほんの数分、学生時代を回顧する話をして別れた。当時すでに私は、織田作之助の「競馬」の影響で、馬券に手を出していたが、彼はまだ競馬と出会っていなかった。

それから数年たって、巨泉はNTVの「11PM」の司会者となり、遊戯を通して小市民的な日常を活性化する仕事に打ちこむようになった。当然、競馬もやるようにやるようになり、持ち前の熱心さで血統を学び、腕をあげていった。その頃、私は公営競馬にユリシーズという馬を一頭もっていたが、ユリシーズは「陽のあたる場所」へ出ることもなく引退していった。

一方、巨泉は良血馬を購入し、近代的な調教で知られる成宮厩舎にあずけるようになった。バーボンプリンスとブルーロックの仔のロックプリンスがデビューしたのは、昭和四十七年だから、六年前のことになる。ロックプリンスは四歳になって未勝利を脱し、二百万下、やまぶき賞を連勝し、すべりこみで出走権を取得し、ダービーに出た。

ダービーで、ハイセイコータケホープと競うことになったロックプリンスと、その馬主としての大橋巨泉は、一段と晴れやかなものだった。ロックプリンスは二十七頭立ての二十一番人気だったが、巨泉の素朴な喜び方は好感のもてるものだった。私も、祝儀のつもりで、複勝を一枚買った。レースは、外枠から出たロックプリンスが、中位のままゴールへ流れこみ十一着だった。

しかし、その後のロックプリンスは九戦して一勝しただけで、いつのまにかファンから忘れられて、競馬場を去っていったのである。巨泉は、その後、何頭かの馬をもつ馬主となり、一方ロックプリンスは宇都宮競馬に売られて、ナショナルボーイと名をかえた。ナショナルボーイは、地方では活躍したが、五十二年にレース中にスジをのばして競走を中止してしまった。本来ならば、殺処分になるところだったが、足利の長島調教師が関係者に頼んでやめてもらった。

一部週刊誌では「あれだけ収入がありながら」と巨泉を冷血馬主扱いしたが、それは事実ではなかった。ナショナルボーイの「定年」を案じ、「二度と走らせることをさせず、余生を安らかにすごしてやるように」心をくだいたのは、「元馬主」の巨泉だったのである。ナショナルボーイは、巨泉の口ぞえで、北関東の馬主から「無料」でいななき会に寄付され、現在は福島県二本松市のセンター牧場で元気にしていると、いななき会の八束三千子さんが教えてくれた。

私は、ウィリアム・サローヤンの「ロック・ワグラム」の一節を思い出しながら、過ぎてきた日々を思わないわけには、いかなかった。

 

一生ガラクタをひきずってゆく男と、いい鞄をもっていく男とが旅をしている。

二人は気づいていないが、汽車は同じ駅に止まることがたびたびあるのである。


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