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「百閒雑感 ― 倉橋由美子」精選女性随筆集 倉橋由美子 文春文庫 から

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「百閒雑感 ― 倉橋由美子」精選女性随筆集 倉橋由美子 文春文庫 から

 

内田百閒の小説はどれも面白い。数は少ないし、長大なものはないけれども、これだけ面白い小説を書ければ充分である。『冥途』、『旅順入城式』に収められている短篇は何度読んでも面白く、漱石の『夢十夜


をはるかに凌ぐ。かりにこれだけ面白い夢を見てそれをそのまま書いたとすると、これは夢見の天才だと言わなければならない。夢を見ないで作り上げたとすると、この人の頭の構造は尋常ではない。かなり不気味な様相を呈しているように思われる。

これらの小説は一人称で書かれているが、「私」なる人物の実体ではなくて、そこには悪夢の膜でできた容器だけが残されている。読者はその中、つまり空虚な「私」の中に入りこんで、悪夢の容器を内側から眺めることになる。こういう体験は例えば「件[くだん]なら「件」という奇怪な動物の体内に入りこむのに似て不気味なものである。これに対して吉田健一の『怪奇な話』その他の小説は、それを読むと脳に音楽が生じ、脳は陶然として愉しむ。私はこの種の美酒型文学を第一級とする。内田百閒の不気味な小説はこの等級付けの埒外にあり、別格に考えなければならない。

随筆の方も同じ原理でできあがっていて、ただ、小説の場合ほど奇怪な容器の中に密閉される感じがない。実体のない「私」に導かれて気楽な散歩をしながら、気がつくといつのまにか「私」の目で物事を見ているという仕掛けになっている。だからこれもまた不気味と言えば不気味なことである。

人はこの百閒の文章を名文だと言う。確かに紛れもない名文である。何の変哲もないことを書いてこれだけ面白いのは名人芸と言うほかない。世の中には人の知らない珍妙なこと、異常なこと、自分の苦痛などを勢いこんで伝えようとする文章が多く、それを読んで身につまされたり感動したりする人もまた多いが、百閒の文章はその種の野暮なサービスのやりとりとは縁がない。表面はいわゆる身辺雑記の類である。しかし身辺の雑事を、多少の感想を添えて報告したものとも違う。畸人が自らの奇行を記したもののようでもあるが、それでもない。何を書いても面白いというのはスタイルが確立しているからである。スタイルが確立しているものだけが一流の文章で、そうでないものは等級外である。それで百閒のスタイルは、と言えば、すでに述べた通り、読者を「私」の中へ連れこんで妙なものを見せてしまう仕掛けとでも説明するほかないが、実はこれでは大して説明にもなっていない。しかしやむをえないことで、人のスタイルの秘密を説明することは不可能である。

 


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