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「蛙 (抄) [抜書] ー 小泉八雲」日本の名随筆25音

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「蛙 (抄)[抜書] ー 小泉八雲」日本の名随筆25音

 

手をついて歌申し上ぐる蛙かなー古句

 

 

旅の様々な印象、それも比較的単純に感覚に訴えてくる印象のなかで、ものの音、野外の物音ほど、しみじみと鮮かに異国の記憶と結びついて、心に残るものは少ないようだ。自然の声ー森や川や野の声が、地帯によって異なることを本当に知っているのは、旅行者だけだ。感情に訴え、記憶に浸透して、ここは異国、はるけくも来つるものかなという感じを喚び起こすのは、まず大体、いかにもその地方特有の音の響きである。日本でこの感じを特に喚び起こすのは、虫の音ー西洋の同族とは驚くばかり違った音の言葉を発する半翅類の仲間たちだ。虫の音ほどではないが、異国情緒を感じさせてくれるものに、蛙の歌があるーもっともこの方は、どこでも耳にすることができるために、自[おのずか]ら印象に残るのだが。米の栽培が全国いたるところ、山腹丘陵はもちろんのこと町のすぐ周辺でも行なわれているから、水の湛えられた平地はどこにでもあり、従ってどこにでも蛙はいる。日本を旅した者は、一人としてあの水田の喧噪を忘れ得まい。
晩秋から短かい冬の期間は鳴りをひそめているが、春の目ざめと共に、沼地の声がいっせいによみがえるー沸々と湧き立つその無限の合唱は、よみがえる大地そのものの声かとさえ思われる。そして遍在する生の神秘は、その漲り溢れる歌にこもる特有の哀愁におののいているかのようだーこの歌は、忘れ去られた幾千年の歳月、田を耕し続けてきた忘れ去られた幾代もの農夫によって聞きつがれてきたけれども、人類より幾万年も古いものに相違ない。
ところで、この寂しい歌を、日本の詩人たちは幾百年もの間、好んで歌に詠み続けてきたのだった。しかし、その歌がただの自然現象としてよりも、心楽しい響きとして、詩人たちの感覚に訴えてきたことを知ったなら、西洋の読者は一驚を禁じ得ないだろう。

 

蛙の歌声を詠んだ詩は、無数にあるが、その大半は、普通の蛙を歌ったものと解しては説明がつかない。日本の詩歌で稲田の大合唱が歌われる時、賞美の的になっているのは、無数のケロケロが混じり合って生ずる一大音響に他ならないー実際、この合唱の響きには、人の心を和らげる雨の音にも比すべき、爽快な印象がある。しかし詩人が単独の蛙の鳴き声を耳に快いと歌うとき、それは稲田で鳴く普通の蛙ではないのである。日本の蛙の大部分はゲロゲロ鳴く種類のものだが、(木に棲む蛙はさておき)目立った例外が一つあるーそれは河鹿で、これこそ日本の歌う蛙の代表である。その声をゲロゲロなどと言おうものなら、それこそ不当の言であって、その鳴き声は鳥のさえずりのように美しいのである。昔は、これがカワズと呼ばれていた。しかしこの古くからの呼び名が、近年になって、一般の蛙の総称であるカエルと、普通の用語で区別できなくなったために、今はもっぱらカジカと呼ばれている。河鹿は愛玩用に飼育もされ、東京あたりでは虫屋がこれを売っている。下に、砂と小石を敷き、きれいな水をたたえ、草木などをあしらった水盤を置き、上は、細い針金の網になっている、特殊な籠で飼われるのである。水盤の中を箱庭のように仕立てたものもある。この頃では河鹿も春から夏にかけて鳴く生き物と考えられるようになったが、かつては秋の楽士に分類されていて、人々は、その鳴き声を賞するという目的だけで、秋の頃わざわざ田舎に出かけて行ったものである。そして特定の夜鳴く虫の名所が方々にあったように、河鹿の棲息地として有名な所もあちこちにあったのである。次に挙げるのは、中でも名所の誉れ高かった場所であるー

玉川と大沢の池(山城の川と池)
三輪川、飛鳥川佐保川、布留の山田、吉野川(以上大和)
昆陽[こや]の池(摂津)
浮沼[うきぬ]の池(石見)
伊香保の池(上野)

 

 


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