「葛飾の歴史が刻まれた地名の由来 ― 大島佳子」東京人 2012年3月増刊号 葛飾区を楽しむ から
葛飾区役所がある「立石」の地名は、「立石様」と呼ばれる奇石に由来する。応永五(一三九八)年の『葛西御厨注文[かさいみくりやちゅうもん]』には、すでに「立石」と記載されている。地元住民は古くからこの石を信仰し、江戸時代の名所図会や地誌、紀行文にも登場する。「立石様」は立石八丁目の児童公園内にあり、現在は「立石いなり」として祀られている。
「水元」という呼び名は、現在の水元公園内にある小合溜[こあいだめ]からきていると言われている。この小合溜は、幕府が享保十四年(一七二九)年、井沢弥惣兵衛[やそべい]に命じて造らせた溜井で、東葛西領の灌漑用水として使用された水源地でもあった。小合溜が田畑を潤す源であったことから「水の元」、「水元」となったと言われている。
葛飾区随一の観光名所、帝釈天のある「柴又」。正倉院の文書には「嶋俣里[しままたのり]という記載が残されている。島状の地形を表す「嶋(島)」と川の合流分岐点を表す「俣」、当時の地形からつけられたこの「嶋俣[しままた]」が「しばまた」「柴又」と変化したと考えられている。
由来でおもしろいのが「亀有」。周辺の低地の中で、この地域が亀の甲羅のように盛り上がった地形をしていたことから「亀を成す」の意で「かめなし(亀無、亀梨」と呼ばれていた。ところが江戸時代になり、長寿の象徴の「亀」が「無い」のでは縁起が悪いとされ、正保元(一六四四)年の国図作成時には「亀有」とされたそうだ。
区内で気になる地名をもうひとつ。「あおと」は、住居表示では「青戸」だが、京成電鉄の駅名は「青砥」。こちらも諸説あるが、古い文献では、渡し場や船着場を表す「津」「戸」を使った「青津」「大戸」などと記されているものがあり、それが「青戸」と変わったと言われている。一方「青砥」は、鎌倉幕府の名判官であった青砥藤綱が晩年をこの地で過ごしたと言い伝えがあったことから、「青戸」と「青砥」が混在し、現在もその名残があるようだ。