「縁への接近 - 中村良夫」風景学入門 中公新書 から
領域の境界や物の輪郭といった空間の縁[ふち]が人間の視知覚の特性と関係があり、記憶にも残りやすいことはすでに述べた。ここで「縁」というのは、座敷の縁先[えんさき]、屋敷の外構、都市の縁辺部、水陸の境、山と平地の境目などを想定しているのである。縁はたいてい見かはらしがよく、そういうところへ行ってみたくなるのが人情だ。
「縁[ふち]」のことばも多い。「縁[へり]」「端[はし]」「端[はた]」「辺[へ]」「ほとり」「際[きわ]」「たもと」「はずれ」・・・。山の麓[ふもと]を「端山[はやま]」というように、「浜」とは「端海[はあま]」の義という。「水辺」「道の辺」「堀端」「門辺」「野末」「橋のほとり」「山の端」「町はずれ」・・・。ここで「端山」が奥山・深山に対し、「端海[はあま]」とは沖・奥に対しているように、「辺」とは奥に対することばである。「縁[へり]」には、幽奥部の深い趣はないけれども、中心となる物自体には求めがたい余韻の風格がある。
時間の推移についても同様に、「萬の事も、始終[はじめおわり]こそをかしけれ」と『徒然草』にいうように、季感に関する「時間の縁[ふち]」感覚にも注意すべきと思う。
花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや
藤原家隆のこの歌は、知ってのとおり、「侘びとは?」の問いに千利休が答えの代わりに示した歌であったという。雪間の草は冷え寂びた冬の景色にさし込んでくる花の春の微かな光芒である。冬から春へ向かう時間の緑の寂光である。
それにしても山里の三月はいい。冷えきった雑木林の梢がほんのり赤味を含んだかと見える。その色合いが一雨ごとに潤んでくると、ある朝、山は急にふわりと、計り知れない柔らかさにつつまれる。そして、ぼうっと薄鶸[うすひわ]色に煙りだした山肌のあちこちぬ、山桜がポッポッと薄明かりを霞みかけるのを待つ。
縁[ふち]の魅力とは、要するに、予兆と両義性の面白さ、そうして物のまわりをかすかにつつんで物を知らぬ間にひき立たせる寡黙の力といえる。縁の魅力はどのような空間型式に由来するのであろうか?水辺に例をとってみたい。
山水画の水辺を注意して眺めると、水際に人を暗に誘うような独特の含みが感じとれる場合がある。岸辺に近づき、水に親しむという仮想の行為のこの象徴的表現は、次のような空間型式によっているように思える。
まず、水際に近づく、おだやかな斜面の流れが、そのまま滑らかに水面へつながっている。これは、洋の東西を問わず、水際景の一つの理想型であるらしい。仏典の浄土の池の描写に、「岸辺の烏が水を飲めるほどに」(『観無量寿経』)岸と水面の落差は小さい、とある、また、わが国の造園術の古典とされている『作庭記』に、「遣水[やりみず]は・・・庭のおもてをよくよくうすくなして、水のせせらぎ流れを堂上より見すべき也」とあるのも、このあたりの機微を語ったものである。
庭園の池泉などで、水面まで降りていけそうな段状の石組を配した岸辺なども、見る人を水面へ誘う一種のほのめかしの面白さであって、実用的必要性あるいは可能性とは別次元の話である。かつては実用上の理由から設けられた川岸の石段や踏石などは、現在、風景上の理由で消滅が惜しまれているが、単に懐古的とみるのはどうであろう。