「神の視点と人の視点 - 中村良夫」風景学入門 中公新書 から
風景とは、いうまでもなく、地に足をつけて立つ人間の視点から眺めた土地の姿である。飛行機や人工衛星から見た姿ではない。風景という現象の特色や不思議も、このあたりまえの事実に深くかかわっている。
空中から見た地上の図がらは、万象の狂いない配置を映し出してはいるが、平板で、おもしろ味に欠ける。それに対して地上から眺める風景は、視点の位置によって変幻自在、まことに不安定で頼りないけれども、味わい深い。つまり、空中の視点は、普遍な神の世界像を与え、地上の視点には、その場所かぎりの人間の風景が映る、ともいえようか。ルネサンス期に、人の視点から見たとおりに辺りを描く透視図法がもてはやされたのも、それが人間復興の理念にそっていたからであろう。
飛行機に乗ると、たちまち壮大な神の視点の素晴らしさに幻惑されてしまうが、しばらくすると飽きてくる。それに対して地上の風景は、人を圧倒するようなことはめったにないかわりに、生涯の友とするに足りる。この違いは、どこから来るのだろうか。
空中の視点をしだいに下げてゆくと、山襞[やまひだ]や稜線のくっきりとした輪郭線が浮き出てくる。ちょうど、人の顔を正面から撮った写真は味気ないが、ちょっと横から見たプロフィールには個性が出てくるのと似ている。それにまた、地表面上の物の形は著しくゆがんで見える。空中から観測すると、ほんのわずかな曲りにすぎない海岸線が、地上で長手方向に眺めると、にわかに美しい弓なりを描き出し、「曲浦」となる。そして沖合に漕ぎ出してふり向けば、こんどは、坦々とした長汀の拡がりを見せるのである。
地上の風景は、このように、輪郭線の出現と曲率のゆがみによって地形のかたちを強調したり消去したりする。そうしてその特徴の一面が浮き彫りにされると、気韻生動の趣が生まれてくる。
このように地形の客観的形状よりも主観的透視像を問題とするところに、地形学と風景学の違いがある。空間曲線の透視形状が、じつに思いがけない結果になる事実を最初に注目して、その性質を研究したのは、道路設計の技術者たちであった。曲面をなす地形の透視形状は、曲線として扱える道路にくらべてずっと複雑である。
たとえば、地形学上の山頂がなくても、風景としては、頂をそなえた山容が目に映るというようなことがある。東北地方南部の山沿いで羽黒系修験者の舞台となってきた美しい山容の端山[はやま]の数々なども、じつは肩衝[かたつき]形の尾根にすぎない場合もまま見うける。
もう一つ、山の斜面が実際よりもずっと急に見えることに気づいている人は多いであろう。少し遠のいたところから山の斜面を眺めると、平地から立ち上がった部分が折れ曲がって、ちょうど屏風を立てたように見える。山腹の勾配が20°もあれば崖のように急に見えるという現象は、遠くなるほど斜面の奥行知覚が困難になることにも一つの原因があるが、山襞線が透視図法上の効果をこうむることによるのである。屏風のように山が連なって見えるさまをいう「翠屏[すいへい]」という形容は、このような体験をよく表わしている。