「勘定所首脳と改革政治(抜書1・勘定所という役所) - 水谷三公[みつひろ]」江戸の役人事情-『よしの冊子』の世界 ちくま新書 から
勘定所という役所
寛政元年正月、定信政府が目付および勘定奉行宛に一通の通達を出した。それによれば、「御目付と申候者、御政事之にて御作法第一」であり、他方「御勝手向預り候勘定奉行等」は勝手掛り目付と「両輪」の関係にある、だから「御勝手向と御政事向」きの協調こそ、政務の主眼だと通達は強調する(『憲法類集』)。
かみ砕いて言えば、目付は政治の基本方針にかかわり、綱紀粛正を推進する柱で、勘定所は財政を所管する実務運営の中心だということである。戦前、役所の双璧をなした大蔵・内務両省について、「大蔵は政策の中心、内務は政府の中心」というのが、官界の常識だったのを連想させる。もっとも、勘定奉行所は、江戸の官界なかではすば抜けた規模と権能を誇り、たんなる財務や税務にとどまらず、今日わたしたちが行政という言葉で連想する政府活動の大半がここで集中管理されていた。
たとえば、現代の外交活動や外務省の直接の起源は、幕末の外国奉行に遡るが、その外国奉行所幹部や主要職員には、目付とともに勘定所系職員が数多く起用された。江戸の最高裁であり、常設の政府諮問機関でもあった評定所は、通例、寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行で、時にこれに大目付、目付を加えて構成されたが、その実務を取り仕切ったのは評定所留役である。ところで、留役の正規身分は留役勘定とされ、広義の勘定所職員に列し、人事交流を含めて、評定所事務機構は勘定所の統制下にあった。また、寛政以降は、寺社奉行についてもほぼ同様の仕組みがとられるようになる。さらに、全国各地に散在する御料、つまり徳川家直轄領を支配する代官は、公式にも実務上も勘定奉行所に属し、ここから上がる収入が、将軍、大奥を含めた「内局」や、政府活動一般の財政基盤となった。また、公式には老中直属とされる遠国奉行の多くも、執務実態や実務担当職員人事などの実務面では、事実上勘定所統制下に置かれた。これ以外にも、蔵奉行、金奉行、漆奉行、金・銀・銅座などの数多くの役所、公的機関も勘定所の外局か外局同然だった。
遅くとも、寛政の改革から半世紀ほど後の天保十年(一八三九)以降、『会計便覧』と呼ばれる、いわば『大蔵職員録』が民間で刊行されるようになる。一般の政府職員録に当たる「武鑑」とは別に、勘定所のみを扱う詳細な職員録が年々発行されたこと自体、実務官庁としての勘定所の重要性を物語るが、これをもとに江戸在住の勘定系職員総数を計算したところ、湯飲み所の者と呼ばれる雑役担当や、金・銀・銅座などの現業部門の職員を除いて、延べ七百十人強、実数で六百七十人程度に達した。これに全国に散らばる代官とその配下の手付・手代などの地方職員を含めれば二千人にはなる。他方、町奉行所は南北合わせて与力五十人、同心三百人の三百五十人体制だから、比べて勘定所が巨大で複雑な官庁だったことがわかる。
「冊子」は勘定所について、町奉行などとちがい、「天下に拘ハり大役」であり、「他場所と違ひ御勘定所ナドハ又一体を呑込ぬでハ勤らぬ」役所だと言っている。勘定所は政策全般にかかわり、綿密であると同時に大局に通じていないと勤まらない役所である以上、改革を進めるうえで、町奉行所はバイパスできても、勘定所は、目付同様、政府の指揮下に抑え込み、使いこなさなくてはならない。勘定所をいかに統制し使いこなせるか、それが改革の正否を大きく左右する。