(巻二十七)噴水やまこと短き昼休(枝澤聖文)
11月19日木曜日
本日も好天なり、でありました。洗濯と排水口の掃除を致した。
散歩:
高校コースで三千八百歩階段は2回でした。
老銀杏散ずる快を貪れる(相生垣瓜人)
読書:
『 「びっくり箱 - 荒川洋治」忘れられる過去 から』
をコチ読しているが、文壇盛衰記のような考察を面白く読んだ。
《忘れられることにも、残ることにも理由があるだろう。日本を例にとって、そのあたりを見つめてみたい。どうして消えるのか、忘れられるのか。
①生前文壇で勢力をもちすぎ、没後急速に敬遠される。→佐藤春夫、横光利一(ただし近年は再評価のきざし)など。
②その生き方や文学がいまひとつ明確ではなかった。あるいは徹底しなかった→有島武郎など。ちなみに佐藤春夫はここにも、はいるかも。
③国民的人気を誇ったが、芝居・映画化でイメージが固定。→山本有三、船橋聖一、火野葦平、尾崎士郎、壷井栄、石川達三など。映画を見れば済むので、読者はその人の文章を読まなくなるのである。特に映画は文学にとって危険なものだ。
④社会の変化に合わなくなった。→宮本百合子、平林たい子、野間宏、高橋和巳など。荒俣宏の『プロレタリア文学はものすごい』(平凡社新書・二〇〇〇)を読むと、小林多喜二や平林たい子は、あるいは岩藤雪夫などはこれから読まれるべき人なのかとも思う。
⑤国際的な作家として名声をかちえたあと、筆がゆるんだ→安部公房。
⑥「時代」を次々に突き抜けるほどの、強い個性や魅力がなかった。
この⑥のケースがいちばん一般的であるように思う。次に来る「同種・同傾向の作家」の文学世界に「吸収」されて印象を弱めていくのだ。
西欧風の青春文学で一世を風靡した堀辰雄は、戦後日本の「新風俗」を下敷きにした石坂洋次郎の作品世界に「のまれて」しまう。ところが石坂洋次郎も、石原慎太郎、五木寛之などにそのあとのまれてしまう。
時代小説では、山岡荘八、吉川英治、大佛次郎がより繊細な「大衆性」をひめた山本周五郎にのまれて消えていく。
サラリーマン小説では源氏鶏太がいっとき永遠の生命をもつかと思われたが、新しいサラリーマン像を描く山口瞳に、さらに山口瞳は人生哲学的なひろがりをもつ城山三郎に、とってかわられる。歴史物の井上靖の人気はいまは、いっそう明確で柔軟性のある歴史観をもつ司馬遼太郎に、あるいは「文章」をもつ、吉村昭に吸収されているようす。》
死人に口無しと言うところもあるが、いずれにしても文豪として世に名を残すのは大変だ。
木枯の吹き残したる星座かな(七井二郎)
なぜ題が『びっくり箱』かは文末で解かれて御座いました。コチコチ終わり次第ご紹介いたしたい。
食事:
蓮根の炒め物を作ってくれた。とても美味い!食感が嬉しい!ちなみに他の皿は真鯛のポアレ、昨晩の残り物の“牛”肉豆腐と茹でインゲンである。真鯛のポアレと称するものが本当にポアレなのか私には判らない。まだ息子が付き合ってくれていたころ三人で日比谷のペニンシュラのラウンジでランチをしたことがあり、そこの選べるセットの一つが真鯛のポアレで、皆んでそれを頂いた。それ以来我が家ではちょっと手を掛けて真鯛を焼いたものを真鯛のポアレと呼んでいる。ペニンシュラの真鯛のポアレをもう一度食べてみたいとは思わないが、蓮根の炒め物は旨かったのでまた作って貰いたい。
匙なげしやうにも見えて枯蓮田(能村研三)
ベランダから四日月とその真上にある木星を見た。
願い事-叶えてください。生きていたことの全ては消えて、それでおしまい。
この世には何も残さず障子貼る(須賀ゆかり)