(巻二十七)不忍や水鳥の夢夜の三味(河東碧梧桐)
10月18日日曜日
散歩:
近所の花鳥風月を愛でる散歩である。花に加えて鳥も愛でようと双眼鏡をぶら下げて歩くことにした。
双眼鏡のなか一閃の鷹渡る(高岡敏子)
初日はわざわざレンズを向けるほどのことはない烏と鳩にしか出逢えず。
中川の土手まで歩けば、少しは鳥らしい鳥にも出会えるかもしれない。
鳥の名を少し覚ゆる年とせむ(高澤良一)
ガラホのカメラでは鳥の写真は撮れない。写真は金満のバズーカ爺さんたちの趣味であろう。あたしゃやらん。
コースは白鳥生協、修徳、ドラッグストアでした。生協の中の薬局で洗って反復使用できるマスクを探して来いとの命を受けたが、使い切りばかりで反復マスクは置いていなかった。
本日は五千四百歩で階段4回でした。
朝日俳壇:
露の世の自慢話の淋しかり(小川弘)
を書き留めた。
語り手自らがそう思ったのであればそれは淋しい。
が、語ることなく自分の内に留めておいて、独り酌むときにでも思い出してニヤニヤすればよいのではないだろうか。認めてくれる人が居ればそれに越したことはないが、無理な相談でしょう。
『過去の意味-加藤秀俊 (生きがいの周辺 文春文庫)』から
《しかし、本人にとっては、その過去の経験こそが、存在のあかしなのである。とにかく、かけがえのないじぶんの一生、そのなかでじぶんはこういうことを考え、こういうことをしたのだ、という自己認識 - それがおよそ人間個人にとっての立脚点なのである。》
老らくの昼寝の笑みを訊かれけり(寺尾善三)
読書:
引続き柴田錬三郎氏の作品をよんでいます。
「五十五歳 - 柴田錬三郎」柴田錬三郎選集18随筆エッセイ集 から
《私は、兵隊の時、輸送船が撃沈され、バシー海峡で、数時間泳いでいる経験を持っている。
- あの時、死んだと思えば......。
その気持が、私に、あらゆる場合、くそ度胸めいた行動をとらせて来た。
外国のカジノなどで、腰を据えている時には、殊更に、私は、自分に、
-あの時、死んだと思えばいいじゃないか。
と云いきかせで、有金をつぎ込ませた。そして、そのくそ度胸が、しばしば、私の目の前に、チップスの山を積ませた。》
この方の文章は読点がやたらに多くてコチコチしづらい!今まで読んだ作家の中で、多分、最高“点”ではないかと思う。
平仮名と漢字の使い方や送り仮名、センテンスの長さなど文体として一番馴染み安いのは、私には、団鬼六氏の文章です。
テンポとしてはやや文語調がよろしいようで、林望先生の流れが心地好うございますな。
夕食に秋刀魚をいただいた。まだ嬉し。
願い事-叶えてください。うふふと逝けたらこれ最高!