(巻二十五)非常口に緑の男いつも逃げ(田川飛旅子)
3月31日火曜日
誰にでも一度はあらむ今生の
終の桜と知らず見る花(前田良一)
朝一番で生協に米を買いに行き、途中で桜をしっかりと見ておきました。
米は二キロの袋が無く、五キロの無洗米を買いました。何かの事情で、米不足と云うことではないでしょう。
ある区議の広報ビラによれば5年後には葛飾区の住民の四割が高齢者になるとあった。生協にも老人が買い物に来る。あたしはまだ五キロの米をぶら下げて持ち帰れるが、ちょっとした買い物をカートに入れてやっと押して行く姿を見かけることがある。自分で運ぶにはどうしても二キロが欲しい老人はいるだろうなあ。
あと何年生きるのかは分からないが、生きていれば五キロが運べない日はあたしにもやって来る。
自らを頼む明け暮れ年新た(楠元輝子)
話をする相手は細君だけという生活ですが、人と接触しないという日々は悪くはありません。この環境で行けるところまで行ければ、それはとても幸せなことだと思います。
社会との関わりが切れれば社会的には存在しないことになりますが、それを終活というのでしょう。存在していたことさえ忘れて終わりたいあたしには心地好い。
月花や四十九年の無駄歩き(小林一茶)
これから先には暗く切ないことが待ち受けているが、今日は無事に過ごせた。細君とテーブルに向かい、新聞の広告にあった『大河の一滴』を話題にしながら、湯気の立つ汁とご飯をいただき、温かい風呂に入り、布団にくるまった。
天国と思ふ布団の中にいる(高橋とも子)
(読書)
「なぜかふと心が萎える日に - 五木寛之」幻冬舎文庫 大河の一滴 から
《 人間はだれでも本当は死と隣りあわせで生きている。自殺、などというものも、特別に異常なことではなく、手をのばせばすぐとどくところにある世界なのではあるまいか。ひょいと気軽に道路の白線をまたぐように、人は日常生活を投げだすことはありえないことではない。ああ、もう面倒くさい、と、特別な理由もなく死に向かって歩みだすこともあるだろう。私たちはいつもすれすれのところできわどく生きているのだ。 》
運転免許証ではないが、返納の手続きを簡単で苦痛のないようにして貰えないだろうか?
返納の決意の揺らぎ梅雨に入る(森岡喜恵子)