(巻二十五)詰め込むや茄子のはみ出る鍋の蓋(寺田寅彦)
3月12日木曜日
今日の句は寺田寅彦だから書き留めたのだと思う。
『 「俳句における近代と反近代(一) - 外山慈比古」中公文庫 省略の文学 から
その I・A・リチャーズの『実践批評』の方法を俳句に当てはめたらどうなるか。普通はそんなことを思いつかないが、そういう独創的なことをあえて行なった批評家があらわれた。ただ、それが戦争に敗けて、日本の伝統がすべてその責任を負わされているような時代であったことは、論者にとっても俳句にとっても幸福ではなかった。作者の名を伏せたら俳句は定立しない。大家の句も新人の作品も区別がつかない。作者のことを知っていてはじめてわかるようなのは近代芸術としての資格に欠ける、というのが、かの有名な「第二芸術論」であった。はたして大騒ぎになり、俳句にあまり関心のない人たちまでしきりにこれを話題にした。 』
今朝は払暁に一度目が覚めてしまった。不快な夢をみたわけではないが喉の渇きを覚えて目が覚めた。原因は寝酒のつまみの柿ピーである。まずそれに間違いない。今晩はそこのところを気を付けよう。
世を憂い眠れずにいたと思っていたが、原因は貧相な寝酒にあったのかもしれない。
(散歩と買い物)
駅前のニトリで木の皿を買っておいで、とのことで駅前まで歩いた。その帰りにダメ元でとあるドラッグストアを覗いたらトレペーがあったので確保した。午後二時近くまで残っていたということは品薄も峠を越えたということだろうか?
男といふ性は峠を過ぎゆきて
赤いきつねを啜りいるなり(田島邦彦)
旨いものを食いたいとはあまり思わないが、
美食より快便うれし老の秋(佐藤其土)
ではある。
ちなみに夕食はフライパンで焼いて醤油味を付けただけの豚もも肉、茹でただけのジャガイモ、茹でただけのブロッコリーがおかずでしたが、とても美味しく戴けました。