(巻二十四)月おぼろ痒きところへ手がゆかず(八田木枯)
2月22日土曜日
どこにも行かず家にいた。
昨晩から今朝にかけては比較的よく眠れたようだ。2時に一度目を覚ましたけれど、次に目を覚ましたのは6時だった。疲れる夢を見るが、それでも眠れないよりはよい。
春一番が吹いたと云う。春一番の句はすでに御案内済みなので、春二番の句を御案内する。
順番に死ぬわけでなし春二番(山崎聡)
をコチコチと読み始めてしまったが、ここまでで降参でした。ある真理を突いた戯れなんでしょうが、あたしにゃ無理!
《国立がんセンターの研修医が、最初に学ばなければいけないことは、真性のがん患者に対してどれほど本当らしく、「お前さんはがんなんかじゃないよ」と言えるかどうか、ということだそうである。慣れないうちはどうしても、言いながら思わず、クスリと笑ってしまうらしいのだ。もちろん、無理もない。国立がんセンターの研修医というのは、国立俳優養成所の研修生ではないからである。
それでなくても、自分ではてっきりがんであると信じこみ、死刑宣告を受ける死刑囚のようにオドオドと落着かない患者を見れば、それだけで吹き出したくなるのが人情なのであるから、そうした患者を前にしてカルテを見ながら平然と、「お前さんはがんなんかじゃないよ」と、言ってのける神経の方が尋常でない。しかもこの場合、笑ってしまってはいけないだけでなく、それをこらえようとして余りに真剣に、説得的になってもいけないのである。駆け出しの俳優がよくそうであるように、嘘であることを隠そうとすると人は極端に真剣になりたがるのであり、かえって嘘であることをバラしてしまうものなのだ。
やや投げやりに、「俺にとってはどうでもいいことなんだが」という感じで言うのがいい。慾を言えばそこに、「俺はむしろお前さんががんであることの方に期待していたのだが、実際は残念ながらそうではなかったよ」というニュアンスを、ほんのちょっと匂わせることが出来れば、申し分ない。すると患者は、医者の期待を裏切ってしまったといううしろめたさから、それが嘘であるかないかという関心を、一時忘れることになるのである。しかしもちろん、これほどの芸当をやってのけられるのは、かなりのすれっからしの医者に限られる。医大を卒業したばかりの研修医などには、及びもつかない芸と言えるであろう。
ともかく現在、がんにおける最大の問題点は、真性のがん患者に対して、どうやってそうでないと言いくるめるか、ということに絞られつつある。がん腫瘍の早期発見など、何ほどのこともない。今日ではだいたい、「どうもがんらしいんですが」と言ってやってくる患者の大部分が、真性のがんなのである。精密検査など、ほとんど必要ないくらいなのだ。だからこそまた、「がんじゃないよ」ということを言ってやり、本人にそう信じこませることが出来れば、それでがん専門医としての役割の大半は済んだと考えてもいいのである。
「嘘をつくと胸が痛む」という特異体質の、良心的な、そして神経質な研修医に対して、国立がんセンターは次のように教えている。「嘘は、自分ひとりの胸にしまいこむのではなく、他にも共有させることによって、痛みもそれだけ軽くなる」つまり、患者に対して「がんじゃないよ」と言った後で、かたわらの看護婦を振り返り、片目をつぶってニッと笑ってみせるのである。「本当は嘘だよ」というわけだ。そうすることによってその嘘は、看護婦にも共有され、その分だけ研修医個人の良心的痛みは軽くなる。もちろん、慣れない内は間違って患者にウインクしてしまったり、せっかく看護婦にむかって正しく合図を送っても、看護婦が鈍感で「何ですか」と聞いてきたりすることがあるから、注意しなければならない。》
晩秋やあつさりと癌告知さる(松重幹雄)
という句がありますが、実際はそうなっているのでしょう?
『死ぬのにいい日だ』でもあっさりと告知されて、余命も半年と言われてます。
あたしなんか弱虫だから、告知受けたら楽に死なせてと取り乱すだろうなあ。
長生きをしたいわけじゃないけど、死はやはり怖い。