「悪文のチャンピオン ー 原田國男」岩波新書裁判の非情と人情 から
裁判官は、判決書をたくさん書くことを仕事にしているから、ある意味で文章に大変敏感である。
裁判所特有の言い回しもある。刑事裁判で一番大切ともいえる無罪判決の主文は、「被告人は無罪。」という体言止めである。それ以外は、たとえば、「被告人を懲役何年に処する。」とか「被告人を死刑に処する。」という。「被告人を無罪とする。」とはいわない。だから、弁護人や新聞記者からは、裁判長が、「被告人は」というか「被告人を」というかが運命の分かれ道だと言われる。
ところで、判決文は、世間では、悪文の代表とされる。岩淵悦太郎の「悪文」(日本評論社)では、「次に、悪文のチャンピオンに登場ねがおう。それは裁判の判決文である」と切り出し、「裁判官は、わが国で最高の教養学識を持っている文化人に属するであろう。しかし、その裁判官たちの判決文にも、文の切りつなぎの面からみると、優秀な悪文が多いようである」と述べている。この「優秀な悪文」というのがミソである。その原因の一つは、論理的な正確性と内容の正確性を重視するからだろう。主語の繰り返しも、別の解釈の余地を防ぐためには、ある程度必要なことである。あいまいさを嫌い、正確さが尊ばれる。それを犠牲にして、名文に走るのは、よろしくない。
私は、若いころ、小学館の「日本国語大辞典」(いわゆる、日国)の編纂にかかわったことがある。第二章に登場した石田穣一さんの陪席をしていたときに、そのお手伝いをしただけであるが、同辞典のあとがきに専門検討者として名前が載っている。私のひそかな自慢である。一つ一つの言葉の意味をどのように簡潔にして正確に表現するかが腕の見せ所である。その点、石田さんは、簡潔な判決文を目指し、また、それを実現していたから、この感覚に特に優れていた。辞書編纂の仕事は、まさに、三浦しをんの「舟を編む」(光文社)で語られているとおりである。
たとえば、「未必の故意」という普通の人にはわけのわからない法律用語がある。密室の恋とは、何だということにもなる。これは、故意の一種であり、殺したいという積極的な意欲がなかったとしても、相手が死んでも構わないと思っていれば、故意ありとされる。日国では、 「行為者が、犯罪事実の発生することを積極的に意図したわけではないが、自分の行為から場合によってはその結果が発生するかも知れないし、そうなってもしかたがないと思いながら、 なおその行為に及ぶときの意識」となっている。
裁判員の人は、殺意とは、人を殺そうと積極的に意欲することで、カーッとなって、 無我夢中で人を刺した場合には、殺意はないと思いがちである。しかし、法律では、そうでないのである。裁判員には、未必の故意などという用語は用いずに、より中身のわかりやすい表現で説明することが試みられている。「人が死ぬ危険性が高い行為をそのような行為であるとわかって行った以上殺意が認められる」といった具合である。これでわかりやすくなったといえるかは疑問の余地があるが、これ以上くだけた表現は、とれないであろう。ここに、法律文書の乗り越えられない壁がある。悪文とならざるをえないゆえんがある。そうは言っても、わかりやすいにこしたことはない。私の若いころは、裁判官も深い漢籍の素養があったから、たとえば、 「死屍累々鬼哭啾啾というべき」、「被害者に魂魄ありとせば、今なお坤輿に低迷徘徊し」、「悲憤瞋恚は今なお融和せず」といった意味はおぼろげに掴めるが、とても読めそうにも書けそうにもない言葉が次々とでてくる判決書もあった。これも時代の流れであろう。
わかりやすければよいかといえば、たとえば、「なんと翌日!」というのは、いただけない。 「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ」という判示(ともに実例)は不当であろう。我々がよく使う「宥恕」を得ているという表現ももはや古臭くなってきたかもしれない。いい語感だと思うが、 今では、「許し」を得ているという表現が推奨されている。「真摯」な反省という場合、摯が使えなかったので、「真し」な反省と書き換えるが、なにか間が抜けた感じ(漢字)だ。だからといって、真面目な反省とか真剣な反省というのもどこか違う。やはり、この言葉自体は、読み替えるべきではなく、残しておかなければならない価値があるのだろう。二〇一〇年に「摯」 が常用漢字になった。
これに対して、「斟酌する」は、相変わらず、「しん酌する」だ。この違いはどこから生じたのか、言葉は面白い。同様に「躊躇する」という用語もよく使うが、「ちゅうちょする」と平仮名で表記するとなると、いささか、しまりがなく、まさにためらわれる。
判決書は、以上のように、悪文の典型であるといわれるが、実は、名文もある。尊属殺人違憲判決(最高裁昭和四八年四月四日)の色川幸太郎後判官の意見などは、若い人に是非読んでもらいたいと思う。それを読むと、名文とは、文章の形ではなく、その中身であり、その訴えかける力の強さだと知る。そういう意味での名文を裁判官は目指すべきである。