「改元紀行(大田南畝) ー ドナルド・キーン(金関寿夫ー訳)」講談社学術文庫百代の過客ー日記にみる日本人 から
大田南畝の名声は、滑稽文学の作者としての名声である。侍階級の子弟にふさわしく、彼は儒学の教育を受けた。だが初めは、それによって身を立てることが出来ず、己の天分に従い、いわゆる狂詩、狂歌、そして黄表紙さえ書いた。今日の漫画本にひとしい分野である。 侍といっても、位は一番低い御徒にすぎなかった。従って官吏としての出世の道は、ほとんど閉ざされていたといってよい。
だが天明六年(一七八六)の田沼意次失脚のあと、松平定信が綱紀粛正に乗り出し、有能な侍に対して新たな栄進の道を開いた。南畝はぬからずこの機会を捉え、官職につくことを得た。滑稽本作者という評判にもかかわらず、彼は職分を真面目に務め、着々と昇進していく。享和元年(一八〇一)、南畝は、大坂の権銅の座(銅取引所)への出張を命ぜられる。 南畝の日記は、彼のこの生まれて初めての大旅行を記録したものである。表題の『改元紀行』は、辛酉[しんゆう]の年には自動的に起こる改元に由来している。
世の常の旅人とは異なり、南畝は、古くは「更級日記」から、最新の『名所図会」に至るまで、東海道に関する文献という文献を手当たり次第に読み、旅に備えたという。道中名所に来ると必ず足を留め、その地についての説明を傾聴している。だが全般的にはかなり懐疑的で、藤沢の小栗堂におけるように、怪しげな遺物などは、時には見ることすら拒否している。「仕宝(宝物)に鬼鹿毛の轡[くつわ]、崇寧[すうねい]通宝の銭、天狗の爪、古鏡など有りと云へれど、浮きたる物(根拠がないもの)見んも由なしと見ずして出ぬ」。
南畝は、目に留まったあらゆる石碑の碑文、額の文字を、几帳面に書き取っている。『改元紀行』を読みながら、私がこの作者に常ならず親近感を抱くのは、あるいはこのせいかもしれない。そのような石碑は、今なお諸所に残っている。例えば、私の東京のマンションから、歩いて一分そこそこの所にも、享保や安永年間の日付を持つ石碑が、少なからず立っている。これなども、もし彼が逆しまの方向に旅をしたのであったなら、南畝の目にも留まったかもしれないのである。しかし時としては碑文の字がよく読めず、南畝も難儀をしている。早雲寺までは、「輿より下りて入るに、京桜咲き乱れたり。鐘楼の銘を探り見るに、文字磨滅して僅かに元徳二年の四字見ゆ。懐にせし蠟墨もて打つ」。南畝が石碑の拓本を取っている姿が、目にありありと浮かぶではないか。次いで北条五代の墓石を探す。「苔蒸(生) したれど文字鮮明に見ゆ。後に経営[いとなみ]建てし物なるべし。斉の七十余城にも劣らざりし勢ひを思ふに、涙も禁[とど]まらず」。
しかし総体的に見て、南畝が生み出す印象は明るい。公用旅行であったにもかかわらず、 ちょっとした息抜きのことも、ためらわずに彼は書いている。箱根の畑という所にさしかかった時、輿かきが疲れ、従者の何人かも身体の不調を訴える。そこで一行は、この宿場で休むことにする。「立列[つら]ねたる酒家の裏より女どもの群出て、百千の鳥の囀ずるごとく、是れに休[いこ]はせ給へ、彼処に上り給ひねなど口々に言ふめり。蔦屋と云へる宿に立入りて、餉[かれひ]。(乾飯)あさり酒飲む」。
南畝の描写は、しばしば詩的である。例えば、
此処は相模伊豆の国堺にして、二本の杉立てり。右は焼たる山の如く、左は深き谷かと危く、踏所の石あらじ。古木老杉木末を交えて物凄く、衣の袖も冷やかに打湿りたるに雨さへ降り出ぬ。大枯木小枯木など云ふ辺りより、輿の戸さし籠て蹲り居るに、輿かく者も石に蹶き、息杖立て、漸うに下り行く。
南畝はこの日記の中で、徳川家の、ゆるぎなき信奉者としての己を描いている。静岡を通った時にはこう記している。「駿府の御城は慶長の年、懸まくも畏こき神のましませし所と聞くにも空恐ろしく、輿の中に蹲まりて過ぐ」。そのあと三河国では、法蔵寺を訪れ、御草紙懸けの松で知られる松を見る。というのも、「神君のまだ幼なくおはせし時、此寺にて御手習ましくける時、此松に草紙を懸て干給ふ」たからである「神」とか「神君」とかが、家康のことであることはいうまでもない。だが「改元紀行』を魅力的にしているのは、 別にこのような感情の表現ではない。その名残ぐらいは今もとどめている「日本」の姿を、 この筆者は眼前にまざまざとみせてくれる。そうした旅人に対して、私たちは常ならぬ身近さを感じるのである。
南畝の読者に彼が近代的だという印象を与えるのは、通った土地の詩的連想よりも、己の目で実際に見たものにもっと関心を払っているからである。彼に先立つ多くの旅人の記述によってよく知られている経路を、彼も辿っている。だが南畝は、己自身の目に頼んで、あの絵巻物中の人物のように、個性に欠けた、名もなき旅人となることはなかった。最後まで大田南畝で貫いたのである。
そして日記のそこここに、自伝的情報の断片をちりばめている。例えば次の孫娘に関するくだりである。「今日は弥生の三日なれば、故郷には孫娘の許に囲居して、桃の酒酌交すらしと思ふに、我が初度の日にさへあれば、従者に銀銭取らせて祝ひぬ」。また京都に着いたのちには、こう書いている。「八坂の塔の高きを見るにも、彼の彼の浄蔵貴所の行法を試し事まで思ひ出らる。此辺りの人家此辺りの人家に土の人形をひさぐ。古郷の孫の、“玩[もてあそ]”びにもならんかと、一個求めて懐にしつ」。傾いた八坂の塔を祈禱の力で元に正したという浄蔵貴所のことは、私も今まで知らなかった。だが南畝が訪れた塔の、裏通りなら知らぬことはない。そして何軒かの店では、今も「土の人形」を売っている。
道中で食べたものについての南畝の記述は、彼以前の日記作者のものより、はるかに具体的である。次は荒井(新居)の宿での話。「鰻■[むなぎ]よろしと聞て、或酒家に立寄りて食すに、 味殊に良し」。また亀山の記述を読むと、いかにも豆腐が食べたそうである。「城下の市中賑ひなし。四角なる形の物を軒に下げて、「湯豆腐あり」「油揚あり」或は「豆腐」「蒟蒻」など書る様ひなびたり」。
都会育ちの南飲に、亀山が、「ひなびたる」と映ったのは無理もない。京都に着いて、彼はホッとしたかに見える。市中に入る前に、まず衣服を改めている。都へ敬意を表したのである。
蹴揚[けあげ]の清水と云ふ所に到りて、左の方に清らなる茶店あり、立寄りて旅の装ひ脱かへつつ、紋染たる小袖に麻の上下着替て、輿の中に正しく坐し、ゆくゆく見れば、右に三条通りの道あり。
その晩、再び旅装束に着更えたのち、彼は市内見物に出掛け、一軒の店に立ち寄る。
名に負ふ豆腐の田楽といふ物にて、飯食ひ酒飲みつ。女どもの豆腐切る音喧[かし]がまし。隣の簾[す]の中に、浮れたる様の人数多ありしが、女を呼びて豆腐切らしめしに、速[と]く俎を携へ来りて、切る音七種囃[ななくさばやし]す(正月の七草の節句に七種の菜をのせた俎を叩き囃すこと)音にも似通ひたり。
南畝が京都を訪れた際の記録を読んで感じる私の喜びは、彼が言及している建物のほとんどすべてが、今なお存在している事実によって、より一層ふくれあがる。寺から寺へと彼の足跡を追い、彼が見た絵馬や額に、いちいち感心してゆくことも不可能ではない。そういう意味においても、南畝は近代的だったのである。
南畝は大坂へ、伏見から船で行っている。そして、大坂では、一年間滞在する。彼はしみじみと書いている。
「熟[つらつら]思へば鳥が鳴く吾妻より、暮ればかへる大津馬の五十三次、さしも嶮[さか]しき山を越え、 濶[ひろ]き海を渡り、憂きも嬉しきも、今宵伏見の船の中に思ひこめたり。吾が年もまた五十余り三なれば、今年元日の詩に、世路如経東海道(世路東海道を経るが如し)、人生五十有三亭[ごじふいうさんてい]、と作りしも、思へば心の中に動きて、辞[ことば]に顕れし物ならじと、数度起回[おきかへ]り伏転[ふしまろ]びつ、、現[うつつ]ともなく寝るともなく、何時[いつ]しか十三里の流れを下れるにや。
元来『改元紀行』は、南畝が道中で書きとめた、単なる覚書からなっていたものであろう。大板では、公務すこぶる多端であった。だが「公事の暇々、過来し道の事ども思ひ出るまま書やり捨てぬ」と言っている。旅の途次に書いた詩歌は、日記の本体には入れず、附録として巻末にまとめている。おそらく本文に滑稽詩などを入れては、官吏の沽券にかかわると思ったのであろう。だが彼の狂歌詩人としての手腕は、次の例を見ても分かるように、明らかに健在だったのである。初めに前口上がある。「掛川の城下にてそばむぎくふとてれいのざれごとうたよめるものあり」。そして、
湯豆腐の葛布ならでさらさらと一はい汁をかけ川のそば (葛布[くずぬの]=横糸に葛の繊維を用いて織った布。掛川の名産)
南畝の日記は、次のように終わっている。「凡て公の事を省きて、私事をのみ記せり。文拙く気滞[とどこ]ほりて、事も亦くだくだし。我子孫たらん者、あなかしこ、おぼろげの(通りいっぺんの)人に示す事なかれ」。彼の子孫がこの訓令を無視し、紀行文のうちでもとり分け面白いこの書物を私たちに「示し」てくれたのは、それこそ「もっけのさいわい」ともいうべきか。