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「自分の棋風(他3篇抜書) ー 羽生善治」先を読む頭脳 新潮文庫

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「自分の棋風(他3篇抜書) ー 羽生善治」先を読む頭脳 新潮文庫

自分の棋風

これまでにも「棋風」という言葉を使ってきましたが、それぞれの棋士には気質や好み、考え方による個性があり、それをわれわれは棋風と呼んでいます。
ある場面で指された一手に、その人の棋風が如実に現れることもありますが、一般的にはその人なりの選択を繰り返して多くの手数を積み重ねた結果、棋風が醸し出されると言えるでしょう。
極論すれば、プロ棋士には一人につき一つの棋風が存在するとも言えると思います。ですから、一局の棋譜全体を見れば、対局者の名前が伏せられていてもだいたい誰が指した将棋であるかを当てることができます。
つまり、プロ棋士であっても、常に明確な結論を出してから指し手を選択しているわけではありません。何が正解かわからないまま指さざるを得ない局面も頻繁に出てします。
そういった場面、最後は自分の好きな形、好みの展開になるような手を選ぶしかないのです。二つの候補手が浮かんで、どちらが最善かわからなければ、守りが好きな人は守りの手を、攻めることが好きな人は攻めの手を選ぶでしょう。判断基準は、最終的には好き嫌いしかなく、そこに棋風が反映されてくるのです。
私自身は、自分の棋風を一言で表現するならば、「主導権を取りに行く」タイプだと思っています。先ほどお話ししたように、将棋は指し手が進んでいくと、だんだんと有効な手が限定されてきます。そんな状況の中で、どうにかして一歩先を行くことを考える。それが主導権を取りに行く棋風ということです。
反対に、待つことを好む棋風の棋士もいます。相手が何をやってきても、そのすべてに対応できるように手を何通りも用意して待っているタイプです。つまりは相手に主導権を渡してしまうというタイプの棋士です。
それは結局、わずか一歩を踏み出すかどうかの違いですから、実際には両者にあまり差はないようにも見えます。でも、一歩先に主導権を取りに行くことが、実は勝負においては大きな意味をもつのではないかと私自身は思っているのです。

 

大山先生の棋風

 

前述の大山康晴十五世名人は、私とまったく違う棋風の持ち主という印象を持っています。大山先生の場合、極端な言い方をすれば、盤面を見ているのではなく、常に相手を見て将棋を指しておられるのではないかと思うぐらいです。相手がどう指されたら困るか、どうやって来られたら嫌がるかといった心理状態を、実によく観察しているのです。
そんな棋風の棋士は、現在はいないと思います。というよりも、そういう観点でを将棋を指すことのできる人自体が極めて稀有な存在なのです。
普通の人には、相手が何をやってくるか、今何を考えているか、といったことはわかるはずがありません。そんな能力があれば、話は簡単なのですが・・・。
大山先生は、相手が何をしてくるかを読む力に、ものすごく長けていらっしゃったのだと思います。洞察力や、人を見る目が実に鋭敏でした。
私も公式戦で一〇局ほど対戦しましたが、対局を重ねるたびに段々とその力のすごさを実感しました。
具体的に言うと、指された瞬間は「これはあまりいい手じゃない」と感じるのですが、局面が進んでいくと、次第に大山先生はよくないと知りながらわざとその手を指したのだということがわかってくる。そんなことが何度かあったのです。
今の棋士には、これは明らかに悪い手だと思いながら、その手を指す人はまずいないでしょう。こんなことは誰にでもできる芸当ではなく、大山先生の独特の棋風と言わざるを得ません。
野球に例えると、フルスイングされたらホームランになりそうなコースの球だけれど、この打者はそのコースは得意ではないので絶対打てないと計算して投げてくる。そんなタイプの投手でした。だから、大山先生を苦手とする棋士は大勢いたのです。
前の章で直線的に行くか、迂回するかという話をしましたが、大山先生は最も曲線的な指し方をされる棋士だと思います。直線的に指して勝った将棋は見たことがなく、曲線的に指しまわしている間に、明確な差をつけて勝つというのが勝ちパターンでした。
ギりギりの競り合いをして一手違いで勝つという形は少なく、勝っても負けても大差なのが大山将棋の特徴です。
一方で、駒の配置や陣形の良し悪しを判断する力がとても優れていたとも思います。たとえば、「美濃囲いは堅い、銀冠[ぎんかんむり]はもっと堅い」ということは誰でもわかることですが、実戦で戦っている間に陣形が崩れてきたとき、これはいい形かあまりよくない形かを見分ける感覚がすごく優れておられました。形を認識する力と言ってもいいかも知れません。
今の時代に大山先生が生きていらしたら、果たしてどうでしょうか。将棋の質が変化してきているので一概には言えませんが、若手でこれまでに対戦したことのないような棋士は、やはり負かされてしまうような気がします。
本当に他の人とはまったく異質な、ものすごい能力のある棋士だったと思います。

 

棋士の棋風

 

現代の棋士では、あえていえば米長邦雄永世棋聖が、大山先生と似たところがあると思います。やはり相手を見ている部分がかなりあって、指し手を決めるときにその場の空気や雰囲気が、思考の要素に入っているような気がします。
最近、タイトル戦で対戦することの多い森内俊之名人は、受け(守り)と手を読むことに関しては相当に自信を持っているタイプです。
ですから、彼はまず先攻して、その後相手から反撃させて受け切るという展開をすごく好みます。実際、そうやって勝っている将棋が多いでしょう。
最近、「以前より読みの量を減らしている」などと言われることもあるようですが、私自身が対戦している印象では、特に指し方やプレースタイルが変わったとは感じていません。元々の絶対量が人一倍多かったので、たとえ減らしたとしても読む量が多いことには違いはないでしょう。
ただ、一〇代の頃は序盤での長考が多く、五時間の持ち時間のうち、四時間を序盤で使ってしまうこともよくありました。その分、時間がなくなって早い段階で秒読みになり、惜しい将棋を落とすこともあったと思います。
しかし、それだけ時間を使ってきたので、序盤の知識や情報に関してはかなりの蓄積ができています。最近はその蓄積があるので序盤に費やす時間が減ってきていますし、読みの見切りを早くつけるようにしている感じはします。
その結果、終盤に入っても持ち時間が残るようになっており、それによって勝率が上がっている部分はあるのではないでしょうか。
中原誠永世十段は本当に細かいことは気にされないタイプです。これもなかなか真似できないことで、だから途中で不利になっても全く動じないのです。
序盤において、これでは少し不利になりそうだという展開でも、気にせず指していらっしゃいます。それは、やはり自分の力に自信をお持ちなのだろうと思います。自信がなければできない指し方です。
同時にまた、細かいところでは勝負はつかないという大局観を持っておられるように思います。将棋とはもっと奥深いものだと考えておられるのではないでしょうか。
加藤一二三九段は、わが道を行くタイプです。ある一つの局面には、必ずこれが正しいという明快な手がある。加藤先生の将棋からは、そんな信念を感じます。
ですから、相手にじっと手を渡すといった手は好まない棋風で、常に明快さを求めていらっしゃるように思います。
新進気鋭の渡辺明竜王には非常に力強さがあり、粘りながら攻めるという指し方がとても印象的です。「粘り攻め」ともいうべき棋風の持ち主です。
平成一五年、王座戦でタイトルを争いましたが、最終局で私が優勢な局面なはずなのに、なぜかそのまま勝ちきれないような予感がして、不安になった瞬間がありました。それも、彼の棋風からくるものだと思います。
升田孝三九段とは残念ながら一度も対局する機会がありませんでしたが、棋譜で見た限りでは、やはら非常に感覚が優れた将棋だと思います。もちろん深く読んでもいらっしゃるのでしょうが、まずは感覚でかなりの部分を把握して、その後に裏付けのために読んで指す。そんな感じの将棋だったようにお見受けしました。
私が相手の棋風を強く意識したという点でいえば、すでに引退されている吉田利勝八段は、変則的な棋風の持ち主でした。二、三回しか対戦していませんが、対局していて私の予想がほとんど当たらないのです。その点で、強烈な違和感を覚えました。
必死になって何十分も長考して指したのに、相手にまったく読み筋にない予想外の手を指される。そんなことが続くと、次第に考えても仕方がないように思えてきます。吉田八段との対戦では、そんな感覚を味わったことを覚えています。

このようにそれぞれの棋士が個性豊かな棋風を持っていますから、プロの棋士同士でも、ある局面で何を重視するかが違ってくることが往々にしてあるのです。むしろ、お互いの読みは合わないという感覚の方が強いかもしれません。
終盤戦になるとかなりの部分で一致してきますが、それまでは方向性にせよ考え方にせよ、ずいぶん違うのが普通で、そこが面白いのだとも言えるでしょう。
テレビでタイトル戦の解説などを見ていても、指し手の予想があたらないことが多いのはそのせいです。解説や控え室の読みと、実際の指し手が一致してきたらだいたい将棋は収束に向かっていると言われていますが、それまではなかなか当たらないのも、むしろ当然かも知れません。

 

天才とは?

よくプロ棋士はみな天才であると言われますが、私が天才だと感じる棋士はやはり将棋に対して勝負を超越した高い芸術性を追求している人で、その典型が谷川浩司九段です。谷川九段とは対局していて、「よくこんな手を思いつくな」と感心するほどの凄い手を指されたことが何度もあります。
最近の将棋では、渋くこちらに手を渡してくることも多くなりました。よく対戦する人たちにそういう棋風の人が多いので、その影響もあるのではないでしょうか。
しかし、定評ある「光速の寄せ」、つまり勝てると思ったら多少は危険でも最短コースで勝ちに行くという本質的な部分は変わっていません。それは、谷川九段の将棋に対する高い意識のあらわれであり、ただ勝つだけでなく美しい将棋が残るように指したいというこだわりを捨てない強さだと思います。
その意識と強さを持続されている点において、まぎれもなく天才だと感じていますし、後世に残る棋譜を数多く残していかれると思います。

 

 

 


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