「江戸のうまいもの歳時記(魚介類抜書) ー 青木直己」江戸のうまいもの歳時記 文春文庫 から
浅蜊
潮干狩りは江戸の春から初夏を彩る風物詩、毎年旧暦の三月から四月(新暦四~五月)になると、多くの人々が潮干狩りの名所を訪れた。海に囲まれた日本では、干潮の海辺に出て、貝を獲ることは古くから行われており、貝は貴重な食料であった。これは各地に残る縄文時代の貝塚遺跡からもうかがい知ることが出来る。
潮干狩りは江戸の人々にとって、浅蜊や蛤、馬鹿貝などの貝類を採取する場であるだけでなく、娯楽としても非常に重要であった。『東都歳時記』(一八三八)によれば、江戸の潮干狩りの名所として、芝浦や高輪、品川沖、佃島沖、深川洲崎、中川沖が上げられている。早朝、人々は船に乗って沖合いに出て、潮が引き始めた昼頃に中洲に降り立ち、貝を獲る。時には浅瀬に取り残された鮃[ひらめ]や小魚などを捕まえ、その場で料理して宴会をすることもあったという。「擂鉢を取りまいて食ふあさり汁」、この川柳は擂鉢を殻入れにして、家族で取り囲んで浅蜊汁を食べた情景を詠んでいる。潮干狩りで獲れた貝たちは近所にも配られ、各家庭の食卓を賑わしたことだろう。
つい前置きが長くなったが、浅蜊は、江戸の庶民にとって身近な食材である。図説百科事典『和漢三才図会』(一七一三)にも、「民間日用の食となす」とあり、庶民の日常の食に供されたことが分かる。もちろん値段も極めて安かった。江戸の町々では毎朝、納豆売りなどとともに「あさァりむッきん蛤むッきん」(『浮世風呂』)という掛け声を上げながら天秤棒をかついだ棒手振[ぼてふり]がやって来て、貝殻を取ってむき身にした浅蜊や蛤を売り歩く。特に深川で貝を獲る漁師が多かった(『守貞謾稿[もりさだまんこう]』)。江戸では飯炊きするのは基本朝一度だけだったが、そのぶん朝餉だけは温かい飯に納豆、出来立ての熱い浅蜊の味噌汁を楽しめた。ちなみに浅蜊のむき身売りは、天明年間(一七八一~八九)までは正月から三月に限られていたが、後に一年を通して売られるようになった。浅蜊の繁殖期には中毒が起きやすく、新暦でいえば、五月頃と十月~十一月頃の繁殖期の食用わさけたのであろうか。いずれにしてもいそがしい江戸町屋の朝、下ごしらえの手間がかからないむき身の貝は重宝された。
江戸の庶民に大変好まれた浅蜊だが、大坂では珍しかったようだ。『和漢三才図会』によれば摂津(大阪府、兵庫県)や和泉(大阪府)、播磨(兵庫県)といった地方では浅蜊は稀にしか獲れず、人々の口になかなか入らなかったとある。江戸時代の貝事情は地域によって随分と違ったようだ。事実、京都や大阪における江戸時代の遺構から発掘される貝類の遺存体に浅蜊は非常に少ない。ちなみに関西和歌山出身の下級武士・酒井伴四郎は、江戸で蛤や馬鹿貝(青柳)は買っているが、一年を通して自炊用に浅蜊を購入していない。勤番武士の生活マニュアル『江戸自慢』では、蛤や浅蜊は安く味も良いとある。伴四郎の個人的嗜好であろうか。
浅蜊の料理といえば味噌汁やぬた、生姜風味の佃煮である時雨煮など多数あるが、中でも出汁のきいた熱い汁に、生姜の風味が引き立つ酒蒸しは、今も昔も酒の肴の定番だ。また、近年人気の深川飯だが、かつて深川の漁師たちが、船の上でむき身の蛤の味噌汁を飯にかけて食べたことから始まったという。後にむき身の浅蜊を葱と味噌で煮て、どんぶりに盛った飯にかけるようになった。安飯屋で食べられ、まさに手軽な庶民の食べ物であった。現在では深川飯も上品になり、材料も浅蜊と葱以外に油揚げや椎茸などが加わり、米と一緒に出汁で煮込んだ炊き込みご飯が多いようだ。