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「柴又の帝釈天 - 田山花袋」現代教養文庫 東京近郊一日の行楽 から

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「柴又の帝釈天 - 田山花袋」現代教養文庫 東京近郊一日の行楽 から

 

柴又の帝釈天は、東京の東郊で流行仏である。西新井の大師、川崎の大師、新井の薬師などと同じく、都会の人達が半日の小閑を得て行[ゆ]いて遊ぶところである。
此処は元の常磐線の金町から行ったのであるが、本所押上を起点として京成電車が出来たために、今は大抵その便に依って、金町の方から余り行かなくなってしまった。
押上から高砂に行って、此処で市川行の電車を下りて、金町行の電車に乗り替える。と、帝釈天のある柴又は、もうすぐである。

で、電車を下りる。と、帝釈前の門前町が両側に並んでつづいている。川魚料理の茶亭[ちゃてい]、土産物を売る店など、おのずから郊外流行仏のカラアをつくっている。やがて大きな立派な山門に突当たる。

帝釈天の本堂は、近郊の流行仏の中で、宏壮[こうそう]ではないが、ちんまりとした好い建築である。寺の名を題徳寺[ママ]と言って、日蓮上人自刻の帝釈天像が安置されてある。縁日は庚申の日で、その時は人出が中々盛で、電車に乗るにも押し合いへし合いという有様である。露店なども沢山に出る。

寺の中に、一株の古松がある。名高い松である。

普通の賽者は本堂にお詣りして、門前町の小料理屋で昼飯でも済まして、土産物でも買って帰って来るが、どうせ昼飯でも食うなら、利根川[ママ]の縁にある川甚に行って、しずかに川でも見ながら食う方が好いと思う。そこは、本堂からいくらもない。本堂の裏をぐるりと廻るとすぐである。

この川甚という料理屋も、栗橋の稲荷屋などと同じく、利根の河舟の交通の盛であった頃に栄えたものの一つで、他は多くはなくなってしまったのが、僅かに残っているのであろうと思われる。以前は川に臨んでいて静かに友達と行って、酒を飲むのに適していたが、堤防工事で今のところへ移転した。料理はやはり川魚料理で、鯉のあらいが名物である。

この利根川[ママ]の土手の上は、春は桜が見事であるし、秋は蘆萩[ろてき]の白いのを、人がかくれてサクサク刈っていたりして、何となく水郷の美を感ぜしめるようなところがある。小利根は川としてはやや狭いが、それでも、対岸の国府台一帯の丘陵の翠微[すいび]を持っているので、感じが浅露[せんろ]でない。

ここから土手を下って、市川の渡まで一里半位ある。上流は、十二、三町行って、それから田圃の中を通って、金町の停車場まで猶七、八町位ある。花時は舟がある。

大抵の散策者は、しかし、この附近に、新宿[にいじゅく]という衰えた昔の宿のあるのを知るまい。そこは柴又から亀有の停車場に行く途中にあって、そこまで一里半位あるが、そこには東京附近に稀に見るようなさびしい衰えた町で、一種廃物のようななつかしい気分を感ずることが出来る。

昔はこの町は、千住の次駅で、浜街道の一駅として栄えたものであった。それに、江戸名所図絵時代には、中川の鯉がそこらの名物で、料理屋などもあって、江戸人がわざわざこれを食いにやって来たものであった。それが今ではそっかりさびれた。町の通のところどころ畠などが出来ていた。中でも新宿と亀有との間に架けてある橋銭を取る古い橋などは面白い。中川も下流は東京の郊外の発展につれて、工場だの煤煙だのに殺風景にされてしまったが、この附近は、それでもまだ蘆萩や真菰[まこも]などが残っていて、その緑の中から白帆が静かにあらわれ出したりする。この上流をたどって行くと、まだ面白いところが沢山にありそうに思われる。

それに、この附近は、東京の人達に供給する野菜の主産地で、肥料溜などが非常に多く、畠にも、蕪、葱、しょうが、里芋などのいろいろな野菜が見事につくられてある。ここらの百姓は、麦や米をつくるよりも、そういう小物を培養して、それを千住の青物市場に出すことを一年の生計にしている。夕方採って、そして朝早く、それを車に乗せて、千住の青物市場へと運んで行くのである。東京の東郊における一特色である。


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